疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道

漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 (あじあブックス)

漂泊のヒーロー―中国武侠小説への道 (あじあブックス)


中国に唐代から伝わる民間のチャンバラ小説=武侠小説の歴史と代表的作品を論じた本。

「侠」の概念は春秋時代にはあり、『史記』の「遊侠列伝」には

遊侠の徒は、その行為は正義に合わないことはあるが、しかし、その言はかならず信があり、その行はかならず果敢で、ひとたび応諾すればかならず誠意をつくし、その身を愛さずに人の苦難におもむき、つねに一身の存亡死生を無視する。しかも、その才能にほこらず、またその徳にほこることを恥としている。思うに、彼らにもまた、多とするに足るものがある。」

ということが書かれている。武侠小説が描くのは遊侠の徒の世界、つまり、侠客(アウトロー)=江湖(民間)=武林の世界。これは中国の知識人=役人の世界である、士太夫=官界=儒学という構図のアンチテーゼになっている。役人の世界は形式的で、繫文縟礼で、堅苦しい。

なので、当然(?)、武侠小説は良く言えば型破りで自由奔放、悪く言えば荒唐無稽な作品が多いが、その型破りっぷりが半端ではない。この本の代表例を挙げると、

『聶隠娘』
どんな暗殺依頼をも引き受け、猿のように空を飛ぶ女刺客を主人公とした唐代の作品。

『楊家将演義
楊家の親(楊業)から曾孫(楊文広)までの四世代に亘る遼との戦いを描いた戦記。百歳を超えた楊業の妻(佘賽花)までが戦場に出て戦う。

『剣仙記』
剣から炎や雷を飛ばす仙人・呂洞賓が登場する。呂洞賓は唐代に実在した役人だったが、後世、いつの間にか色々な設定が付いて魔法を使う仙人になってしまった。

『花関索伝』
劉備関羽張飛がそれぞれの子を殺し合うという滅茶苦茶な設定の中で、生き残った関索の戦いと恋愛を描く。

といったものがある。こういった武侠小説の流れを経たものが20世紀の金庸、梁羽生、古龍の現代的な作品に繋がるということがわかって、勉強になると同時に非常に興味深い内容になっている。金庸の作品もかなり痛快ですからねえ… 。日本人には馴染みの薄い中国の武侠小説の解説書として優れた内容となっている。この本が武侠小説であるかのように、堅苦しくない点も良い。