L'aube de l'horizon

ごきげんよう

Cheer for Democracy!

はてなダイアリーで記事を書くのは滅茶苦茶久しぶりです。今まで何かを書くほどの熱意が湧き立たず、放置した結果がこれだよ!

ところで、本日4月4日は私の尊敬する『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリー(楊文里)の誕生日です。ということで、民主主義について考えたことを綴っていくつもりです。もちろん、彼の言葉を軸としながら。

  • 1.政治腐敗について

「政治の腐敗とは政治家が賄賂をとることじゃない。それは政治家個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判できない状態を政治の腐敗というんだ。貴官たちは言論の統制を布告した、それだけでも、貴官たちが帝国の専制政治や同盟の現在の政治を非難する資格はなかったと思わないか」 田中芳樹銀河英雄伝説2 野望篇』徳間文庫 280頁

当時、「救国軍事会議」と称する軍人集団は、自由惑星同盟の政治腐敗に業を煮やして、首都ハイネセンを占領して軍事独裁体制をとっていた。ヤン大将(当時)はこのクーデターを制圧し、救国軍事会議の首謀者の一人で、政治の腐敗を打倒するため、自分たちの行いは止むを得なかったと自己正当化するエベンス大佐に対して上記の台詞を投げかけました。

日本ではしばしばマスコミや知識人が政治腐敗を指摘します。政治家の官界や財界との癒着、政府与党の指導力不足、贈収賄、不正入札… なんだかうんざりします。

 次に提示するのは、Wikipediaの「腐敗認識指数」という記事です(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%85%90%E6%95%97%E8%AA%8D%E8%AD%98%E6%8C%87%E6%95%B0)
。調査主体である「トランスペアレンシー・インターナショナル」という組織が必ずしも信用できるとは限りませんが、日本の180カ国中19位という数字は高順位と評価しても差し支えはないでしょう。国家権力の濫用を法律や制度によって掣肘する手続や、メディアを通じて公然と政治の腐敗を指摘・批判する手段が一応確保されています。中国や北朝鮮と異なり、権力者を批判しても強制労働あるいは公開処刑されることはありません。

ちなみに自由惑星同盟では救国軍事会議のクーデター後も「お国のために戦って死ぬのが美しい」という、戦時中の日本のような精神論的軍事主義が抜けきらないまま。その後恩を仇で返す形で、ヤンを被査問人として開かれた査問会で彼はこう言い放ちます。

人間の行為の中で何がもっとも卑劣で恥知らずか。それは権力を持った人間や権力に媚を売る人間が安全な場所に隠れて戦争を賛美し、他人には愛国心や犠牲精神を強制して戦場へ送り出すことです。 同上『銀英伝3 雌伏篇』224頁

やっぱりヤン△

多様な政治的価値観の共存こそが、民主主義の精髄ですよ。そうではありませんか? 同上『銀英伝7 怒濤篇』 286頁

民主主義、自由主義社会民主主義新自由主義保守主義… 日本でも思想・良心の自由(日本国憲法19条)、表現の自由(同21条)を始めとした精神の自由が保障されています。憲法によって国家権力を抑制しつつ、政治的・社会的多様性を確保しようという、立憲主義の思想ですね。ヴォルテール「君の意見には反対する。だが君が意見を主張する権利は死んでも守る」という言葉に表れている精神です。 
なぜ多様性が確保されなければならないのか。これは政治的・社会的マイノリティが可哀想だから、という単なる人道的理由からではありません。あったとしてもそれは二の次か三の次。

それは政治的・社会的多様性があったほうが国にとって都合がいいから。もっと言えば強い国になるから。中国はともかく、北朝鮮軍事独裁政権が権力を握るミャンマー、今年の革命前のエジプト、チュニジアなどが政治的環境の変化に柔軟に対応し、世界の趨勢にキャッチアップするだけの余力がある(あった)でしょうか。環境の変化に上手く対応しているのは、欧米諸国をはじめとした民主主義国家です。

「我々政権への批判は許さん」、「その危険思想を今すぐ捨てろ」、「愛国心を持たない奴は非国民だ」、「外国人は出ていけ」、という国と、「我々のやり方に文句があれば批判していいよ」、「へえ、それが君の思想か。いいね」、「別に我が国を好きでも嫌いでもいいよ」、「我々の国にようこそ」という国ではどちらが強くて、柔軟性があるかは一目瞭然でしょう。

専制・独裁国家は民衆の支持を得ているうちならまだしも、間違った方向にハンドルを切ると国ごと崩壊します。それは悠久の歴史が証明しています。

  • 3.自由からの逃走

「(前略)民主共和制とは、人民が自由意志によって自分たち自身の制度と精神をおとしめる政体のことか」
「失礼ですが、閣下のおっしゃりようは、火事の原因になるからという理由で、火そのものを否定なさるようなものに思われます」
「ふむ……」
「そうかもしれぬが、では、専制政治も同じことではないのか。時に暴君が出現するからといって、強力な指導性をもつ政治の功を否定することはできまい

「私は否定できます」
「どのようにだ?」
「人民を害する権利は、人民自身にしかないからです。言いかえますと、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウム、またそれよりはるかに小者ながらヨブ・トリューニヒトなどを政権につけたのは、たしかに人民自身の責任です。他人を責めようがありません。まさに肝腎なのはその点であって、専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点に尽きるのです。その罪の大きさにくらべれば、一〇〇人の名君の善政の功も小さなものです。まして閣下、あなたのように聡明な君主の出現がまれなものであることを思えば、鋼材は明らかなように思えるのですが……」
同上『銀英伝5 風雲篇』360〜362頁 地の文省略。青字はヤン、赤字はラインハルトの台詞

以上は「銀英伝」の二人の主人公であるヤンとラインハルトが会戦後に会談を行ったシーンの台詞です。これは異論の余地なくヤンの言うとおりだと思います。ルドルフのような独裁者や、トリューニヒトのようなデマゴーグ(煽動政治家)を政権の座につければ、民衆が悪政の害を被っても責任は彼らを選んだ民衆に帰します。

銀河連邦のルドルフの場合も、自由惑星同盟のトリューニヒトの場合も、フロムが指摘した「自由からの逃走」と深く関連があると言えます。フロムはドイツ国民がナチスを支持した理由を社会心理学的に分析した社会学者です。

第一次世界大戦後のドイツでは、自由であることに倦み飽きた国民が続出しました。職業選択などの自由は認められているが、希望の職業に就けないことなどによる自由への苦痛、ヴェルサイユ体制下で巨額の賠償金をむしり取られる屈辱、それに伴うハイパーインフレによる社会不安・不満がくすぶっていました。そのため知識人をはじめとする多くの国民は自己の自由をナチスに捧げ、ヒトラーに服従するマゾヒズムユダヤ人を攻撃するサディズムを発揮します。トリューニヒトはともかく、ルドルフも共和主義者や身体障碍者などマイノリティを弾圧、排除しています。

このように、人間は他者やモノを自分の思い通りに支配する欲求(サディズム)と強大な存在の権威に従う欲求(マゾヒズム)という、アンビヴァレントな二つの欲求を備えています。弱者を虐げ、強者に媚びる者が古今東西後を絶たないのはこのためです。

特に権威に従いたいという欲求は根深いものです。

自由の身になった人間にとって、ひざまずくべき相手を少しでも早く探しだそうとすることぐらい、たえまない心労はない。しかし人間というものは、ひざまずくべき相手をつねに求めている。それも申し分のない、すべての人間がいっせいに膝を折ることができる、そんな文句なしの相手だ。なぜなら、こういうみじめな人間たちの心労というのは、たんに自分や相手がひざまずける相手を探せばよいというわけではなく、だれもがその相手を信仰し、だれもがかならずいっしょにひざまずける相手を求める、という点にこそあるからだ。 ドストエフスキー著 亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟2』光文社古典新訳文庫 271頁

これは有名な「大審問官」の一節。ローマカトリックを信仰していた囚人が、自由を得たにもかかわらず、大審問官に信仰の自由を差し出してしまうというもの。自由が必ずしも至上とは限らないことを表します。それは宗教でも政治でも同じ。寄らば大樹の陰。

やはり政治というものは相手が政治家であれ、独裁者であれ、官僚であれ、丸投げして委ねるべきものではありません。「政治とはあまりにも重大な事柄なので、政治家に任せておくことはできない」(フランス大統領 シャルル・ド・ゴール)というところでしょうか。

それをどのように実現すればいいか?それはまたの機会に語るとしましょう。