L'aube de l'horizon

ごきげんよう

文藝春秋編『「坂の上の雲」人物読本』文春文庫

前回の『坂の上の雲』で取り上げなかった人物たちについて。

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

坂の上の雲〈1〉 (文春文庫)

評価:★★★★

【あらすじ】
“人物”で読み解く「坂の上の雲」の世界の魅力とは―。1000人以上の登場人物から250人を厳選した「主要人物事典」には作中の“登場箇所”ページも掲載。さらに、子孫たちが語る逸話、好古・真之のその後、著名人が選んだ好きな登場人物と言葉、脇役たちの意外な素顔…。作品を何度でも再読したくなるファン必携の副読本。

【全体的な感想】
登場人物の経歴について触れる人物事典はこの本の後半。前半は「塩爺」こと塩川正十郎、脳科学者の茂木健一郎、俳優の武田鉄矢各氏といった各界著名人や、登場人物たちの子孫がそれぞれ「坂雲」や先祖たちについて語っている。

中でも茂木氏が乃木希典の漢学の素養の高さに言及した稿については、なるほどな、と感心させられた。漢詩が詠めると、人間としての深さというか、奥行きを感じる。

【人物たち】
というわけで本題。気になった人物たちについて。秋山兄弟や伊藤博文大山巌東郷平八郎といった第一線には敢えて触れず。

・伊地知幸介
乃木希典率いる第三軍の参謀。旅順要塞戦に手こずり、4ヶ月で1万人以上の兵を死傷させたとして、乃木と共に無能の烙印を押された損な役回りの人。ただ、この時は戦車や軍用機も実用化されていない上、伊地知が参謀総長児玉源太郎に弾薬など物資の補給を打診したところ「そんな余裕はない」と取り下げられたという条件下では、誰が軍を率いていても苦戦は免れ得なかったと思う。竹中半兵衛ヤン・ウェンリーよろしく、奇策であっさり無血開城なんて、そうは問屋が卸さない。

さらに、クリミア戦争のセヴァストーポリ要塞戦*1や、第一次世界大戦のヴェルダン要塞戦*2に較べればだいぶ被害は少ない。戦闘の規模や状況の違いもあるため、一概には言えないが。

山本権兵衛
日露戦争時の海軍大臣。海軍の近代化に努め、「海軍のオーナー」として作者・司馬遼太郎から高く評価されている人物。彼は後に2回総理大臣の椅子に就いているが、それぞれジーメンス事件、虎の門事件と不祥事によって内閣総辞職に追い込まれている。日本史の教科書も多くを語っていないためか、私のこの人に関する知識もその程度だった。

何はともあれ、彼がいなかったら日本海海戦での勝利もなかったことだろう。

高橋是清
日銀副総裁。後に総理大臣や大蔵大臣を歴任し、蔵相として昭和恐慌を沈静化させたことで有名な人物。「坂雲」では秋山真之正岡子規の英語の教師として最初に舞台に上る。

日露戦争時には日銀副総裁として戦費調達に奔走する。当時の欧米諸国では新興国の日本が強大なロシアに対して勝算があると思っている者は少なく、なかなか外債の買い手は現れず。その中で外債7億円のうち、半分を引き受けたのがユダヤ人銀行家のヤコブ・シフだった。彼はユダヤ人がロシア帝国から弾圧を受けていたことに端を発する反露感情*3を抱いていた。俗な言い方をすれば、高橋は日本のセールスマンであり、その求めに応じてシフは日本に投資した、と言える。

このあたりから、平時の政治と戦争の連続性を感じる。普段から特定の人々の反発を買うような政治ばかり行うのはまずい、というわけですね。

明石元二郎
ロシア公使館付の大佐。100万円*4の工作資金を用い、後にロシア革命を起こすレーニン、作家のゴーリキー、ロシアの支配下にあったフィンランドの独立運動家のシリヤスクなどと交流、ロシア国内での連続暴動の引金を引いた。

高橋とシフのエピソードに並び、戦争に際しての資金の重要性を感じさせる話である。まさに戦争における諜報、工作活動の模範であった。ロシア帝国が周辺諸国から恨みを買っていた国で良かったね。

・金子堅太郎
アメリカのルーズヴェルト大統領とはハーヴァード大学での同級生だった政治家。伊藤博文らと共に大日本帝国憲法の制定に尽力したことでも知られる。

日露戦争に際して、ルーズヴェルトとのパイプを通じて講和斡旋に持ち込むよう彼に働きかけたのは金子。当時のアメリカでは、ロシアがアメリカの新聞を買収し、日本のネガティブキャンペーンを行っていたことも考慮に入れると、個人的なものであっても、人脈の重要さを思い知らされる。

・ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー
ロシアのバルチック艦隊司令官日本海海戦で日本の連合艦隊に大敗したこと、船旅の途中で何度も部下の士気低下に繋がる言動を取ったとされており、これまた無能扱いされている人物。作中ではロジェスト「ウ」ェンスキーと表記されている。

正直この場合も、誰がバルチック艦隊司令官であっても日本海海戦に勝ち目はなかったと思う。日本側と異なって統一性に欠く艦隊の構成、バルト海からアフリカ方面まで迂回するという長距離・長期の航海、日本の同盟国であったイギリスに石炭など物資補給を阻害される一方で、自らの同盟国であったフランスは補給に消極的、さらに戦場は日本海というアウェイ戦。これだけのハンデを抱えて日本海軍に勝っていたら、東郷平八郎を差し置いて間違いなく世界三大提督の一人になっていたに違いない。

*1:ロシア軍、英仏土連合軍合計死者20万人以上。期間は約1年

*2:フランス軍、ドイツ軍合計死者70万人程度。期間は約10ヶ月

*3:シフはロシア革命の際にもレーニンやトロツキー資金提供を行っており、その反露感情(正確には反ロシア帝国)は本物

*4:現在の日本円にして約100億円。国家予算の0.4%に相当