疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

浅田次郎『蒼穹の昴』講談社文庫

最初に読んだのは4年前、二度目は先々月末〜先月初にかけて。

民を活かすために国を亡ぼす


名作は読み返しても素晴らしい。最初に読んだときは大まかなアウトラインと、一部のシーンしか記憶に残らなかったが、時を経て読み返すことで、内容がより鮮明に頭に残った。

本作の要は、清朝光緒帝期、宦官として西太后の信頼と寵愛を受けた李春雲と、科挙の状元(首席合格者)でのちに光緒帝の股肱の臣となる梁文秀、この故郷を同じくする2人の出世譚である。二人は白太太という老婆のお告げを聞き、互いの道を歩むことになったが…。数多の艱難辛苦を味わいながらも、それを乗り越えていく彼らの姿には敬服する。勇気付けられた。

鍵となるのは「どうしようもない」ことを意味する「没法子」という言葉。両親や兄を亡くし、貧しい生活を送る春雲は、人間の幸と不幸が生まれつき決められている(=どうしようもない)と思っていた中、白太太の「宦官として頂点に上り、歴代天子の天命を司る龍玉を手にする」というお告げを聞く。実は白太太の春雲へのお告げは嘘であったのだが、その内容に反して、彼は過酷な道を歩みながらも、宦官として出世を重ねていく。本作は「どうしようもないことなどない」ことを読み手に提示しているのである。

それを考えれば龍玉は、「どうしようもないことなどない」ことを逆説的に示すための小道具に過ぎないことがわかる。詳しくは次回更新予定『中原の虹』のレビューで触れる予定。

この作品の魅力は春雲や文秀、ジャーナリストの岡圭之助、トーマス・バートンといった架空の人物たちと、実在人物を、虚実取り混ぜ、渾然一体に溶け込ませた点である。特に重要な人物は西太后李鴻章の二人。

西太后

「私は鬼なのよ。夫を殺し、子供を殺した鬼なのよ。鬼になって、何とか四十年この国を持たせたんだけどね」
「だから、栄禄たちが何と言ったって、私は載湉だけは殺さない。この国は私が滅ぼす」 4巻369頁

咸豊帝の皇后。夫の死を経て同治、光緒両帝の下で垂簾聴政を展開する。呂后則天武后に並ぶ中国三大悪女として有名。

本作の西太后を一言で表現するなら、「大物悪役女優」である。当時の清は太平天国の乱や、アヘン戦争以来の欧米列強の侵蝕により病み衰えていた。放置しておけば清がインドやベトナムのように植民地化することは火を見るよりも明らかであった。

その予防策として浮上したのが、日本のような国家の近代化である。すなわち、歴代王朝が連綿と引き継いだ皇帝専制という旧態依然とした政体を廃し、4億の民衆が自らを治める国家を築くこと。西太后はそう主張する乾隆帝*1の霊の導きを受け、現在と未来の民衆の憎悪を一身に背負う悪女として清朝の幕を下ろすことを決意する。権力欲と奢侈に溺れた悪女として知られる彼女の悲壮な覚悟と、読み手と春雲と乾隆帝以外には決して見せない筆舌に尽くしがたい苦悩もしっかり表現されている点も見逃せない。

李鴻章

「なぜに怯える。汝が蔑む文弱の漢人将軍ぞ。洋鬼子の走狗と呼ばわり、亡国の買弁と罵る、筆を剣に持ちかえただけの士大夫ぞ」 4巻276頁

直隷総督として国政の重きに与った清末の名臣。日清戦争も実質的には日本と清の戦争ではなく、日本と北洋軍(=李鴻章の私兵)の戦争だったと言われるように、軍の重鎮でもあった。最初に本書を読む前は日清戦争後の下関条約での清側の全権としての認識しかなかったので、驚いたことを記憶している。

彼の見せ場は大きく分けて2つ。1つ目は「展拡香港界址専条」を巡るイギリス公使との交渉。当時イギリスはインドをはじめ、着実にアジアに植民地を広げつつも、米西戦争に勝利してスペインからフィリピンを得たアメリカの進出を警戒していた。李鴻章は白熱した駆け引きの末、そんなイギリス側の心理を利用し、香港の99年間*2租借を調印させる。99年後に清国はなくとも、中国大陸は在り続け、民衆は生き続ける。これはトーマス・バートンをして「西洋の合理主義と中国の大義名分を両立させた」などとして絶賛せしめた。

思ってみれば、本書を読む限り、李鴻章は香港を「献上した」のではなく、「投資した」としか思えない。イギリス公使の側が完全に押されていた。租借の結果、イギリスの下で香港は世界有数の都市へと成長。1997年に香港は中国の下に返還されたが*3、本国の民主化を求めるデモが起こるなど、政治的にも経済的にも、中国共産党へのアンチテーゼの拠点になっている。それを踏まえると本書の李鴻章の先見の明には感嘆させられる。

2つ目は龍玉を得ようとし、帝位簒奪の野心を持っていた栄禄に槍を突き付けるシーン。先に挙げた台詞が出たシーンでもある。先に栄禄は戊戌政変で西太后側に付き、革命を志していた譚嗣同らを処刑していた。そんな志ある若者を死に追いやり、権力を恣にする栄禄への李鴻章の憤怒が感じられる。威厳が半端ない。

え?主人公格の春雲と文秀はどうしたって?春雲は西太后の最大の理解者として、若くして大総管太監(宦官の頂点)の位に昇り詰める。文秀は戊戌変法の頓挫を受け、岡圭之助らの援助を受け日本に亡命。西太后李鴻章について語るのに感けて、扱いが疎かになってごめんなさい。

余談。終盤に少しだけ少年時代の毛沢東が現れる。落ち延びていたとはいえ、榜眼(科挙三位合格者)を家庭教師に迎えるとは。

次回は続編『中原の虹』のレビューを更新する予定。主に取り上げる人物は、張作霖袁世凱、宋教仁の3人。

*1:清朝6代皇帝。元々満洲人の征服王朝の君主でありながら、中国の文化や学問だけでなく、西欧の文化にも理解があった乾隆帝の60年の治世は中国王朝の歴史の縮図であった。そんな乾隆帝に中華世界の国土、権力、人民の全てを皇帝一人が掌握するシステムの歪さを語らせたという点がこの作品の巧いなあ、と思うところ。

*2:数字の「九九」と永久を表す「久久」をかけたもの。

*3:ちょうど読んでいた7月1日に、香港返還から15周年を迎えた。