疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

貧困の克服―アジア発展の鍵は何か

貧困の克服―アジア発展の鍵は何か (集英社新書)

貧困の克服―アジア発展の鍵は何か (集英社新書)


「人間の安全保障」、「潜在能力」といった概念を提唱してアジア人初のノーベル経済学賞受賞者となったインドの経済学者、アマルティア・センの4つの講演を収録した本。

この本は、

・中国やシンガポール権威主義的な政治体制だったからこそ経済成長を遂げた。
・東アジア世界の儒教は君主(上司)の命令が絶対の封建的な思想である。
・そのような「アジア的価値観」は西洋の自由・人権と対立する。

といった紋切り型の論を否定すると共に、

・人間の安全保障―人間の生存・生活・尊厳を脅かす脅威を包括的に捉え、その除去を目指す取り組み。インフラや社会保障制度の充実の他、基礎教育の普及、人材養成や土地改革を通じての市場経済へのアクセス拡大など。
・潜在能力―良い人生を生きるために必要な機能の集合。「経済的余裕」はもちろん、「頼れる家族や友人がいること」、「健康であること」、「自分に自信があること」、なども含まれる。湯浅誠『反貧困』でいうところの「溜め」。

といった概念を提唱する。そして、これらの実現のためにはアンガージュマン*1に基づく民主主義が鍵を握っているという考えを明確にする。そこに大本営発表ばかり行わないような自由なメディアや定期的な選挙の存在は不可欠である。その視点から蒋経国政権下の台湾、リー・クアンユー政権下のシンガポールを批判しているあたりが興味深い。

印象に残っているのはインドの自由さについての論。仏教では、あらゆる煩悩から解放されて悟りを開くことを「解脱」と言うことや、マウリヤ朝アショーカ王がエグラディの勅令で「他人の宗派を軽んじるべからず」というような全ての人への寛容さを説いた例から自由を語るという点は新鮮だった。日本の南北朝時代南朝北畠親房が『神皇正統記』で日本と中国やインドとの原理の違いを論じた上で寛容と合理性を説いたことを思い出したが、人間はどこかで寛容さの重要性という結論に至るようになっているのかもしれない。ヨーロッパでは三十年戦争の後か。そういえば日本でセンの思想に共感して人間の安全保障を重んじた人として故・小渕恵三元首相が紹介されている。「冷めたピザ」と揶揄されたこの人も再評価されつつあるように思った。

*1:意思的・実践的政治参加