疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

ないんだったら、自分で作ればいいのよ!

「生きる意味」って何だろう。誰でも考えたことがあるテーマだと思います。そして考えれば考えるほど、思考の迷宮にハマってしまうことも…。

結論から言ってしまえば、考えるだけでは埒が明かないテーマです。私の場合は高校、大学時代、そして大学卒業後と、ずっと頭から離れず、固執し続けた。究極的に人生において確かな絶対的真理や本質的価値など存在しないことを理屈ではわかっていたはずなのに。

この世には絶対に確かな価値観などない、ならば世間様お仕着せの陳腐な「道徳」(世間一般で正しい、善いとされているもの)よりも、自分自身が美しい、尊いとみなした価値観=「倫理」に従って生きようと思ったのはここ数年の話。

もう最近に至っては、オルテガの定義する「大衆」のごとく「他人と同じであることに価値を見出す」という他人に流される生き方には否定的です。自分が屈折した人生を送ってきただけあって「いい会社に入って〜、結婚して家庭を設けて〜、定年まで勤めて〜」などという世間一般がよしとする生き方に微塵も魅力を感じません。

確かな価値観など存在しないと考えている点で、私がニヒリストであることは否定しません。ですが、確かな価値観など存在しないからこそ、私は前向きに生きていられるのだと思います。生きる意味がないんだったら、自分で作ればいい。ニーチェが『ツァラトゥストラかく語りき』で明らかにした「能動的ニヒリズム」。そして「神は死んだ」という死亡宣告に端を発する虚無を肯定し、力強く生きる「超人(Übermensch)」。これこそが私の理想とする人生の在り方。

私の知る限り、ニーチェの言う「超人」思想を最も体現しているのが「魔法少女まどか☆マギカ」の暁美ほむら
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紆余曲折の後、ほむらはまどかを守るという「生きる意味」を失い、世界の救いようのなさを感じます。それでも、その世界が彼女が守ろうとしたものであることを悟り、戦い続けたほむらの姿には一種の崇高さを禁じ得ませんでした。偶然にも私が「まどマギ」を見ていた時期と『ツァラトゥストラ』を読んでいた時期が重なったため、尚更思い入れがある一連の流れです。そういえば『ツァラトゥストラ』で語られるテーゼの一つ「永劫回帰」(=同じようなことの繰り返し)も作中のループに酷似しています。

まあ長々と語りましたが、仮に今後生きる意味を喪失しても、命ある限りはまた見つけられる、ということは知っておいていいと思いました。