疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

わたしはどこから来たのか わたしは何者か わたしはどこへ行くのか

ご無沙汰しております。2月、3月といろいろありましたが、20代後半にしてようやく正社員としての職をゲットし、今月20日に入社することに相成りました。Kamikamiでございます。

今まで就職がうまくいかなかった理由。それは大学在学中から公務員試験に、公務員試験がうまくいかなかったら行政書士やら社会保険労務士やらの資格試験に固執し、結局突破できないことによるものでした。黒歴史として完全に葬り去りたい過去です。

今更公開しても詮無きことですが、もう少し世の中の恣意性に早く気づき、対策を講じたかった、と振り返ってみて思います。ここで言う恣意性とは、善人が報われるとは限らないし、悪人が罰を受けるとも限らないことに代表される、世の中の出鱈目さです。実際にはその逆、善人が若くして非業の死を遂げることもあれば、悪人が畳の上で大往生を遂げることだってあります。それはおかしい、と思ってみても何も変わりません。私はここ1、2年でこの事実を直視することから、自分の人生を捉え直しはじめました。

どう生きるのか。それはもう少し「わがままに」生きてみること。他人や世間に気に入られるような常識的な生き方をしても報われるとは限らない。だったら、もう少し開き直ってみようか。「役に立つか」「人に喜ばれるか」よりも「自分が楽しいと思えるか」。「~すべきだ」「~しなければならない」ではなく「~したい」で物事を判断する。自分の意見を表明する場でも「~すべきだ」「~しなければならない」という言い回しは使わず、「~したい」と言う。何事もそう考えることで気が楽になってきました。

最近人から「あなたはどんな時に幸福を感じるか」と問われたことがあります。私は「家族や友人との人間関係が上手くいっていて、趣味など自分の好きなことに打ち込めるとき」と答えました。昔だったら「世のため人のため~」といった建前論に逃げていたでしょう。さらに「その幸福を維持するためには何が必要かと問われ、私は「普段から約束を守るなど信頼を築くと同時に、生活を維持するための経済力を手に入れること」と答えました。以前だったら「人に気に入られるよう努力する」と答えにならないような答えをオドオドしながら絞り出すのが精一杯だったでしょう。質問者からは「あなたの考え方は私の考え方とほとんど同じだ」と言われ、人に認められた満足感と同時に、自分の考えを本音で語ることができたことに、胸の閊えが取れたような爽快感を覚えました。

もう少しどう生きたいのか、というテーマに踏み込んでみます。そう考えてみると、「高貴な死より卑小な生」というワンフレーズに行き当たります。より正確には『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の「未熟な者は卑小な生より高貴な死を選び、成熟した者は高貴な死よりも卑小な生を選ぶ」。中国風に言えば『通俗篇』の「好死は悪活に如かず」。この「惨めでも生きている方がマシだ」というのは以前から考えていたことで、昔から死ぬことで自分の鮮烈な生きざまを現代に至るまでに残した文天祥真田幸村*1よりも、生き残って後世に業績を伝えた楽毅真田信之の方が好きでしたし、今後も変わることはないと思います。

というわけで、今後は「生き延びる」という視点を持ってたくましく生きていきたいと思います。

*1:そこ!真田信繁と表記すべきだ、なんて野暮なことは言うんじゃない!