L'aube de l'horizon

ごきげんよう

『ユリイカ』2014年12月号の感想を踏まえての百合論考

本日はタイトル通り、『ユリイカ』2014年12月号を読んだことを踏まえて、自分にとって「百合」というジャンルがどういった位置付けを占めているかを考えていきたい。もう刊行から1年経ってるじゃないかとか、つまらない突っ込み禁止!


1.その定義


まず、ここで言う「百合」を定義付けてみよう。ただ好き合った女の子同士がイチャラブしていれば百合なのか。いや、でも『ストライクウィッチーズ』のエイラが、女の子相手にセクハラめいた悪戯をするのに、意中の相手であるサーニャの前では好きな子を目の前にした男子中学生のようにヘタレるのも、『ひだまりスケッチ』の夏目が、親切にしてくれた紗英との距離を縮めようと思っても、照れ臭さのあまり素っ気なく接して空回りする姿も実にチャーミングだし、これも百合と呼ばずして、何と呼ぶか、と訝しんでしまう。

そこで気になったのが以下の天野しゅにんた氏のインタビュー記事の中の一節である。

私が今まで聞いた中で一番納得した説明は、森島明子先生がおっしゃっていたものですね。「レズは一人でいてもレズ。百合は二人いるのを外から見て決めるもの。本人たちがどう思っているかはともかく、外部から見てはじめて百合は百合になる」という。

同書99頁

結局のところ、百合は感情を向ける相手の存在を前提として初めて成立しうるジャンルである。その感情の向け方、関係の在り方についても、自分の言いたいことをほぼ完璧に代弁してくれている川口晴美氏の記事を一つ引用してみたい。

けれど、個性的だったはずのキャラクターが、恋愛という枠内におさまったとたん既定のジェンダーの関係性と心理に回収されて描かれるのは、つまらないというより切ない。友情だとか恋愛だとか名づけることで決着しない関係性、名づけようもなく生きて揺らぎ続ける不安定な心情と人物が観たい、読みたいのだ。自分が書きたいのもそのあたり。

同書113頁

友情や恋愛感情だけではない。愛着も、信頼も、敬慕も、憧憬も、崇拝も、熱狂も、苛立ちも、憎悪も、嫉妬も、憤怒も、執着心も、依存心も、抱きうるすべての感情が百合に通じていると言っていい。魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』において、暁美ほむらは自らが鹿目まどかに向け続けてきた感情を「希望より熱く、絶望より深い」ものとし、それを「愛」と呼んだが、これは幾重にも積み重なり、入り組んだあらゆる感情の複合体をあえて一言で表現するために名付けた、というものだろう。この一文字に、「友情」や「恋愛」といった安易で陳腐な名詞で形容しきれないほむらの万感の思いが凝縮されていると言える。ほむら曰く、この「愛」は「人間の感情の極み」なのだから。

というわけで、今後も百合には単なる友情や恋愛といった関係に収まらない、可能性に満ちた物語を求めていきたいと思う。単なる友情や恋愛の枠内にとどまるのであれば、わざわざ「百合」というワードを使うまでもない。こんなことが期待できるのも、百合というジャンルの不定形さ、定義の曖昧さを内包しているがゆえに肥沃な土壌を備えているからだと思っている。

2.自分の求める百合

続いて、もう少し具体的に、自分が百合というジャンルに何を求めているのかを明確化していきたい。そもそも私が百合に目覚めるきっかけになった作品は先に挙げた『ストライクウィッチーズ』である。本作は第二次世界大戦に活躍した実在のエースパイロットをモチーフ美少女キャラたちの人類の命運をかけた戦いを描く作品だが、キャラ同士の絆を強調するシーンが豊富なのが特徴である。テレビアニメは2期まで放送され、どちらも1クールと短いものだが、キャラ同士の関係を自分でも関係を深く掘り下げていくのが捗る内容だった。その後の劇場版やOVA、スピンオフの小説やコミックも楽しんで触れている。

該当するシーンがあるのは、前出のエイラとサーニャがちょっとしたいざこざの後仲違いしたまま、超高高度に出現した人類の敵・ネウロイを撃破する任務に挑むという話。その任務には二人の協力が必要不可欠だった。501のメンバーの後押しもあり、任務を成功させる。その後二人が仲直りするのがそのシーンだが、少し台詞を引用してみたい。

「ごめんな」
「ううん、私も…」
「見てエイラ、オラーシャよ」

「うん」
「ウラルの山に、手が届きそう…」
「このまま、あの山の向うまで飛んで行こうか」
「いいよ…」
サーニャと一緒なら、私はどこへだって行ける」
ストライクウィッチーズ2」 6話より

私は全ての人間関係について確信していることが一つある。それは関係を長続きさせるためには「ごめんね」と「ありがとう」をきちんと言い合うことだ。言い合えればエイラとサーニャのように喧嘩を経ても関係を修復できるし、言い合えなければ喧嘩別れしたまま悲しい結末を迎えることになる。一度ひびが入ってから回復した関係は、ひびが入る前よりも強固になるだろう。これは『マリア様がみてる』で主人公の福沢祐巳が憧れのお姉さまの小笠原祥子との関係がちょっとした行き違いから小説10巻「レイニーブルー」の一件で悪化したものの、山百合会のメンバーをはじめとした周囲の支えもあり、11巻「パラソルをさして」で誤解を解いて仲直りした展開や、『神無月の巫女』で姫宮千歌音がとある理由から来栖川姫子に自分を憎ませて殺させようとするも、姫子に諭されて罪の意識に苛まれていた自分をようやく赦すに至った、といった一連の展開に感動したことに引き継がれている。

ここまで述べたような王道的な百合展開とは別に、自分の中で好きな百合展開にはもう一つ別の系統がある。最近で言うと「響け!ユーフォニアム」の黄前久美子と高坂麗奈の、部活動を同じくする一般的な友人同士に見せかけつつも、

「そばに居てくれる?」
「もしも裏切ったら殺していい」
「裏切らない?本当に殺すよ?」
「麗奈ならしかねないもん。それがわかった上で言ってる、だってこれは愛の告白だから」
響け!ユーフォニアム」11話より

と言ってのける、どこか剣呑さを感じさせる関係だ。真に迫るものがあり、実に見応え、聞き応えがあった。百合的なシーンとしては8話の方が印象深いが、11話のこちらの台詞のほうが、二人の関係性がコンパクトにまとまっている感がある。公式サイトでも「引力」で惹き付けられた関係だということが明らかになってるし…。一見するとごく普通の部活動に励む高校生の学校生活を描いた青春アニメであり、ファンタジー要素が皆無な作品であるだけにシャープさが際立っている。非現実的な要素を用いて訴求するわけでもなく、頭のネジが緩んだキャラに過激なことを言わせて泣かせたり叫ばせたりすることでインスタントなシリアスさを現出させたり、露骨なお色気要素のようなわざとらしさ、といった「わかりやすさ」に安易に飛び付くことなく、物語を完成させているのだから、本作はやっぱりすごい。

繰り返し述べている通り、私が百合に求めているのは単なる友情や恋愛ではなく、自分を惹き付けて止まない熱を帯びた関係性である。どれもが一言では表現しきれず、そもそも単純な比較や格付けに馴染むものではない。私の好む百合はその一つひとつが掛け替えのない唯一無二の関係だ。

3.百合男子として

最後に、一人の百合を愛好する男子としての視点から、百合と自分の関係について見直していきたい。これは今回の『ユリイカ』2014年12月号にはほとんどなかった視点である。まあ、男子というよりも、もう「百合おじさん」とでも呼ばれるにふさわしい年齢になっている気もするが…。

倉田嘘『百合男子』はジャンルとしての百合を愛好する男子高校生・花寺啓介*1の百合に囲まれた生活を描くコミックである。その内容は、自分が男性であるにもかかわらず、女性同士の関係性を描いた百合に惹き付けられていく、というアイロニーを前提としている。同好の士たちから「百合ーダー」と慕われる啓介は、「我思う、ゆえに我あり。だがそこに我必要なし」「俺の嫁などいない」などという信条を掲げており、百合を突き詰めれば突き詰めるほど、男性の存在が必要ないのではないか、という葛藤に苦しむことになる。

私としてはいわゆる腐女子が男性同士の関係を描いたボーイズ・ラブを追求するのとそれほど変わらない感覚で百合を追求していたため、そのような葛藤はさほど重く受け止めていなかった。ただ、百合作品において男性は手段であり、目的にはなり得ない。そうでなければ、そもそも語義に矛盾が生じる。ロボットや能力バトル、お色気要素のようなわかりやすい男性向け要素でもない限り、百合作品においての男性は徹頭徹尾余所者だ。すべて百合男子は部外者としての意識を抱きつつ百合を愛でているのである。それを理解しない「男のよさを教えてやる」と息巻いて百合に混ざろうとする「百合に混ざりたいマン」の存在は無粋の極みだ。そんなに男がいいなら、貴男が別の男に男のよさを教えてあげればよろしい。

「百合に混ざりたいマン」かそれ以上に野暮なのが、アニメ等があればどこからともなくやってきて「○○は俺の嫁」と高らかに宣言する「俺嫁厨」の存在だ。意図して使っている人の方がずっと多いだろうが、好きなキャラを「嫁」と呼ぶのは、家という「制度」の枠内に組み込んで自分の所有物のように扱う、家父長的なジェンダー規範を内面化していることを臭わす言葉だ。私にもかつてそう呼んだキャラもいたが、好きなキャラへの愛着を示す言葉としては相応しくなかった、と当時を振り返って思う。元々この手のジェンダーロールを常々鬱陶しく思う側の人間だったにもかかわらず。周囲が使っていたのに同調するようにそう呼んだ、というもっともらしい言い訳もあるが。何はともあれ、どうあがいても最終的には男性には男らしさが、女性には女らしさが要求される男女カップリング界隈より百合界隈の方が居心地がいい。

だから、少し前にTwitterで話題になった「百合厨は処女厨の亜種」という言説にはどうしても違和感を禁じ得ない。別に百合作品に男性キャラが出てくるだけでギャースカ喚く必要はないし*2、ましてや女性キャラが処女でなかったという理由で怪気炎を上げることはない。結局男性としての欲望を充足させるために百合というジャンルを踏み台にしているという批判は、個々人には当てはまるかもしれないが、百合厨≒百合男子全般に及ぶ問題ではない。むしろ男性に対してやや冷淡という批判ならあたるかもしれないが。個人的にはあまりそうは思っては思っていないし、その批判が妥当だとしても自分は所詮部外者だから甘受するしかないと思っている。

なお、百合厨=処女厨論争では次の記事が詳しいので紹介しておく。
yuriedge.hatenablog.com

と、引用や脚注を含めて5000文字を超えるというかなりの長文になってしまったが、これで私が「百合」というジャンルに対して抱いている感覚や、自分なりの「百合観」については大方語り尽すことはできたと思っている。

*1:この名前自体、「マリみて」に登場する花寺学院を思い起こさせる

*2:さすがに男性と結ばれたら「あれ?これって百合じゃなかったの?」ぐらいは思うかもしれない。「マリみて」で実際に男性教師との恋に落ちた鳥居江利子ぐらいの「物語序盤のメインキャラの一人」ぐらいの位置付けだったらそうは思わないだろうが。『ユリイカ』2014年12月号でも作者の今野緒雪氏自ら「江利子だったらやるだろうなあ」語っている。(同書39頁)