L'aube de l'horizon

ごきげんよう

劇場版 ハーモニー

本日は劇場版『ハーモニー』を鑑賞してきました。

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慈母によるディストピア

で、最後まで見終わった感想はと言うと、
やっぱり百合じゃないか(歓喜)
結局のところ、自分の身体が自分のものであることを証明するために自殺することで証明してみせた少女と、彼女の背中をずっと追いかけて生きてきたかつての少女の物語、ということで落ち着くと思う。それに、キスしたり恋人繋ぎしたりするシーンもあるからやっぱり百合だ!間違いない!(断言)

もう少し詳細に話を。まず世界観について。霧慧トァンが帰還した日本の都市(東京)が曲線を多く用いた有機的な都市としてデザインされているのがまず印象に残った。また白色の多さは清潔な病院を、ピンクの多さは血色のよい肌や健康な臓器を、建物や構造物を覆う赤い網目状の管は血管を想起させ、「生命主義」という絶対的なイデオロギーが支配する「まがい物の天国」だという印象を私に植え付けてきた。この世界なら、Watchmeシステムで心身の健康状態をくまなく掌握し、自分の身体を公共リソースとして供することを強要してくる社会が存在するということが腑に落ちる。原作を読んだ時は、世界観をいかにもディストピア的な無機質な寒色の世界として想像していたので、そのギャップは尚更だった。

それから、何といっても注目したのは御冷ミァハの危うい思想だ。私には、自殺することで自分の身体が公共や権力のものではなく、自分のものであることを証明しようとしたミァハのやり方は、自殺することで神に対する我意の優越を証明しようとした『悪霊』の登場人物・キリーロフのやり方に思えた。我意の極北こそ、自らの意志で死を選び取ることだからだ。そんな社会で自ら死を選ぶことは、生命主義社会における公共リソースの浪費という「テロリズム」に他ならない。理性ある大人にとっては想定されない行為だからだ。

本作がこのテロリズムを、「大人」になることの拒絶、として位置付けていたのも興味深い。ここでの「大人」とは、公共心を持ち他者への配慮を疑いなく行う、社会の構成員という意味だろう。それを強要する社会に不意打ちを喰らわせる、という彼女の思想に危うさを感じつつも、どこか共感してしまった。意識は脳内で繰り広げられる会議のようなもので、相反する考えの中から一つの選択肢を選んで行動に移す、と作中でも語られており、それが自分の脳内でも起こっていたのだ、と今振り返って思い知った。もし大人になることが、疑問を挟むことなく自分の心身を公共の供物とする社会に順応することなら、自分は大人になりたくない。ミァハは巧みに私の心理の虚を突いてきた。ミァハやキリーロフはもちろん、自分の意思に従って行動するときのみ人の魂が輝く、と語る『PSYCHO-PASS』の槙島聖護や、自らの「愛」で円環の理=神の意志に叛逆してみせた『魔法少女まどか☆マギカ』の暁美ほむらの、我意によって俗世の規範を超越した行動に美を感じずにはいられないのとほぼ同じだ。彼ら彼女らのような超越者になれない自分にできるのは、せいぜい称讃と喝采を送ることのみである。

そして、ハーモニー計画は『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」が実現した世界や、劇中でも示唆されていた通りオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』の描く世界を思わせる、人から意識を取り去った怒りも憎しみもない、自然と調和のとれた世界の実現を目指すというもの。ルソーが『社会契約論』で述べていた、人々が「特殊意志」を捨てたことで「一般意志」が敷衍しきった世界、とも言えるかな。そして、その実現には13年前に自殺したミァハの意識がキーとなっており、彼女の出身地であるチェチェンの山奥に向かうが…。そこでトァンとミァハ、二人の思いが交錯し、壮大な百合を感じ取ってしまった。

最後に全体として。ディテールの細かさという意味では原作小説には譲るものの、原作のエッセンスを余すことなく盛り込んだ傑作アニメ映画だと思った。マイナンバー制度の開始で喧しい昨今、管理社会について考えてみるのも一興かもしれない。

でも、できれば『虐殺器官』の前に見たかったな。結局叶わぬ願望だったが。