疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

少女革命ウテナ

いろいろ考えさせられたアニメだったので、その考えたところを徒然なるままに綴ってみよう。

アウトライン

私がこのアニメを見たきっかけは、先日の記事で取り上げた雑誌『ユリイカ』で百合ジャンルを特集した2014年12月号や、Twitterの百合クラスタでしきりに伝説的な百合アニメとして語られていたこと。前々から「輪るピングドラム」や「ユリ熊嵐」のイクニこと幾原邦彦監督が20年近く前に監督を務めていた作品であるという点でも気になっていた。

本作は1997年に制作された、全39話(3クール)から構成される、短いアニメが主流の2010年代から見れば長大なアニメである。個人的にはさほど長さは感じなかったが。作風としては、宝塚歌劇団やアングラの要素の強いプログレッシブさな雰囲気が特徴。男装の麗人や貴族の決闘といったモチーフはまさに「ヅカ」的だ。親友の篠原若葉が憧れの西園寺莢一に蔑ろにされたことを契機に「薔薇の花嫁」姫宮アンシーを巡る決闘に巻き込まれる「王子様に憧れるお姫様」天上ウテナの戦いと学園生活を描いたのが、本作「少女革命ウテナ」である。

世界を革命する力を!

解説的な文章はここまでにして、このあたりから私見を述べていきたい。本作では劇中劇によって幾度も、ウテナが両親を失って悲しみに暮れていた「お姫様」であり、そこを旅の「王子様」に救われたことで王子様を目指すようになったことが語られているが、これが本作のキーとなる。そのためかウテナはいつも学ランを身に付け、「僕」という一人称を使い続けることで、生活指導の教師に注意されたり、他の生徒に「おとこ女」と揶揄されるも、その気高さを失わずに「世界の果て」を名乗る黒幕が仕掛ける「薔薇の花嫁」を巡る決闘で戦い続ける。「薔薇の花嫁」であるアンシーを守るために。

この決闘の場でのウテナの決め台詞とも言えるのが「世界を革命する力を!」である。「世界」「革命」といった言葉は、現実世界で使われているような辞書通りのリテラルな意味ではなく、作中で独自の意味を持つ用語として使われている。

では「世界を革命する」とはどういうことだろうか。本来なら個人的にはこういうことには早々と結論を出して語りたいところだが、メタファーやシンボリックな要素を多用する本作に倣って読み解いていきたい。「薔薇の花嫁」を巡る決闘に携わる桐生冬芽ら生徒会の面々は

卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛で、卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ。世界を革命するために。

と12話までの生徒会編で毎度のように語っている。アンシーは「薔薇の花嫁」であるという立場に甘んじ、勝者の命令に唯々諾々と従ってきた。そんな彼女の心理を棺に閉じこもる少女に重ね合わせて描くシーンもあったが、その少女がアンシーであり、そこに至るまでに「魔女」として人々の嫉妬や憎悪の表象である「百万本の剣」に身体を貫かれたことが、ストーリーの進行と共に明らかになる。

本作の終盤になって、黒幕である「世界の果て」がアンシーの兄である鳳暁生=かつての「王子様」が「お姫様」を救い続けるうちに疲弊した成れの果てであること、「王子様」=ディオスに救われず「お姫様」になれなかった女の子は「魔女」に変貌してしまう*1、といった本作の世界の真相が明らかになる。ウテナはその救いのない運命を変えるために暁生との決闘に決着をつけ、「女の子は王子様になれない」というジェンダーロールに基づく不文律を跳ね除けてアンシーが閉じこもっていた「棺」を開けることに成功する。その代償として、ウテナが百万本の剣に身体を貫かれ、鳳学園という作中の舞台と学園内の人々の記憶から消えることを余儀なくされてしまう。

こうしてウテナは学園から姿を消すと同時に人々に忘れ去れたが、アンシーと暁生はウテナについての記憶を残していた。かつての王子様だった暁生は以前と変わり映えのない日々を送っていたが、ウテナに救われて棺の外へと出たアンシーの方は

必ず探し出してみせるから、待っててね、ウテナ

と人が変わったように主体性を獲得し、学園の外へとウテナを探すために旅に立つ。作中で決闘の勝者であったウテナを様付けで呼んでいたアンシーが、様付けを止めたのも見どころである。ウテナは姿を消したものの、彼女は主体性をまるで見せることのなかったアンシーの意識を変えることに成功した。一方的にウテナに守られる側だったアンシーが、今度は見つけ出して救う番がやってくる、雛鳥が世界の殻を破り、この世に誕生した瞬間である。「世界」=意識、「革命」=変革すること。それが「世界を革命する力を!」という本作を象徴する台詞の意味なのだと思う。

魔法少女まどか☆マギカ」との比較

本作を見終えて、本作に影響を受けていると思しき作品として真っ先に挙がったのが「魔法少女まどか☆マギカ」である。最初は主人公の髪色がピンクで、ジェンダーに囚われない*2あたりに共通点が見受けられたが、王子様=ディオスに救われなかったお姫様が魔女になる、という設定は「まどマギ」で魔法少女の成れの果てが魔女であるという設定に似通っている。それに何と言っても、作中の一連の展開で救われる側にいた主人公が、救う側に回るという立場と役割の転換や、最終的に主人公がヒロインの意識を変革させるに至った、というパラダイムシフトがあった点は見逃せない。骨格の部分が似ていることに気付けば、他の共通点や類似点を探すこともさほど難しいことではないだろう。

その他個人的に衝撃を受けたのが、ウテナの親友ポジションで時折ストーリーの進行に絡む篠原若葉が、とある事情でウテナと敵対することになった20話。一見普通の明るい少女が親友に対して

「お前も!その女*3も!生徒会の連中も!皆私を見下しているんだ!何の苦労もなく、持って生まれた力を誇ってな!だからお前たちは皆平然と人を踏み付けにできるんだ!! 」

負の感情をぶちまける展開は、まさに鹿目まどか美樹さやかとの関係に近しいものを感じた。若葉もさやかも色恋沙汰で板挟みになってたもんね!どこか釈然としない感情を抱えながらも、決闘には真面目に挑んでいたウテナが戦うのを躊躇った唯一の相手が若葉であるだけに、この20話は強く印象に残っている。

百合作品としての「少女革命ウテナ

最後に、百合クラスタに属していることを証明するアリバイ作りのために百合作品として語られることの多い本作をこの切り口から語ってみようと思う。本作の主役格であるウテナとアンシーとの関係も確かに百合と言えなくもないが、個人的には主要キャラの有栖川樹璃と高槻枝織の関係の方が、その関係を百合と名付けるのにふさわしい。ちょっと屈折してはいるけれども。

樹璃と枝織は幼い頃からの親友であり、作中で枝織は何事にも優秀で自分にも優しく庇護的に接するこの親友に対して、見下されているのではないかという劣等感に基づく愛憎入り混じった感情を剥き出しにする。そんな枝織は

これが私、本当の私。光り輝く樹璃の影で惨めに生きてきた負け犬じゃない。光を凌ぐ本当の私、そう、樹璃を支配するのはこの私。

自分と樹璃の関係を光と影に例えているが、ここに樹璃に対して優位に立とうと思っているのと同時に、樹璃なくして自分はないという枝織の依存心が露わになっている。出番はそれほど多くはない枝織だったが、樹璃に自分の優越を示すために彼女の恩人であり先輩である土谷瑠果にアプローチして男女の仲になるも、後にそれが彼の策略であり、自分が利用されただけであることが判明して余計に劣等感を拗らせるという一連の展開にはおぞましさすら感じた。最終話の、枝織がフェンシング部に入って樹璃と正面から試合で対峙してようやく対等の立場に立ったことがわかるシーンを見たときは気分が晴れやかになった。劣等感や依存心もまた最終的に百合に転化しうるものであることを痛感した次第である。

ああ、私は自分を光の百合おじさんだと思っていたけど、だんだん†闇†に染まって闇の百合おじさんになっていくな…。どうにもこの傾向が止められない。


P.S.
と、つらつらと書き連ねてきたけど、この記事、やたら書くのに時間がかかった。正確には半分を2週間ほど前に書いて、残り半分を今日仕上げた、という塩梅だが。

*1:先述の通り、魔女になってしまったお姫様がアンシー

*2:鹿目まどかも母親が外で働いて父親が主夫として家事を担う家庭に育ち、性役割に囚われずにヒロイズムを発揮できるキャラとして設定されている。Magica Quartet『魔法少女まどか☆マギカ公式ガイドブック you are not alone.』芳文社 120-123頁

*3:アンシーのこと