疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

中国史上最初の仏教弾圧者・孫綝

 気分転換をかねて文章を書くことに。今回は某同人誌会誌に載せる文章に関するネタを扱いたい。

綝意彌溢,侮慢民神,遂燒大橋頭伍子胥廟,又壞浮屠祠,斬道人。
三國志』呉書孫綝傳第十九

 浮屠=仏陀のことだから、浮屠祠は仏教寺院ということになるだろう。道人というのは僧侶のことであろうか。とにかく、史書に記録が残る程度の寺院と僧侶が存在したのだろう。孫権の代にはすでに月氏出身の支謙、康居出身の康僧会などの僧が呉に入って仏典を訳している。*1伍子胥の廟と同列に扱われていることを考えると、呉における仏教はまだ浸透して日が浅く、後の南北朝時代隋唐帝国におけるそれと違って確固たる地位を得ていなかったと思われる。ああ、先日扱った後漢の楚王・劉英のハイカラ趣味からは一段階進歩したとも言えるが。


 また、『高僧伝』の康僧会の章には孫権の他にも、孫皓とのやりとりも記述されている。曰く、孫皓は康僧会から正しい仏の教えを耳にしながら、金銅の仏像を不浄な所に置いて小便をかけて臣下とふざけあったとか。すると陰部に急に激痛が走った。それから仏教に詳しい采女に従い、仏像を洗い焼香して罪を告白し、懺悔したところ、痛みが収まった。これ以来、もともと物分りの良かった孫皓は仏教に帰依し、*2五戒を授かった。*3

*1:春秋時代の楚の人。父と兄を平王に殺されたため、呉に亡命した。その後、楚に侵攻して首都・郢を陥落させる。そこで父兄の恨みを晴らすため平王の屍を鞭打ったことは有名。後年、呉の隣国である越の謀臣・范蠡の離間の計により、呉王・夫差と仲違いし、夫差を罵って自殺。死体は皮袋に入れられ、長江に投げ捨てられた。そうした悲劇的な最期を遂げたことから、民間信仰の対象となり、祀られたのであろう。

*2:不殺生(殺生しない)、不偸盗(盗まない)、不邪淫(他人の妻と姦通しない)、不妄語(嘘をつかない)、不飲酒の五つ。とても孫皓が守ったとは思えない。

*3:慧皎著 吉川忠夫・船山徹訳『高僧伝(一)』岩波書店