いろいろあって更新を止めていました。詳しいことは穿鑿しないでくださいな。
復帰作は袁紹の息子たちとその家臣団について。時は199年。袁紹が公孫瓉を滅ぼして間もない頃のお話。
又以中子熙為幽州,甥高幹為並州。眾數十萬,以審配、逢紀統軍事,田豐、荀褜、許攸為謀主,顏良、文醜為將率,簡精卒十萬,騎萬匹,將攻許。
『三國志』魏書卷六 袁紹傳
以上の史料によると、袁紹は長男の袁譚を青州、二男の袁煕を幽州、甥の高幹を并州にそれぞれ置いて統治させていることが読み取れる。三男で袁紹に寵愛された袁尚の名がないが、これは彼が正式な後継者と目されて父の傍に置かれたためだろう。また同時に家臣団にそれぞれ軍務、謀略、兵の統率を任せていることが判る。本題は後者の家臣団についてである。
202年の袁紹死後、袁譚に属したのは郭図と辛評、辛毘兄弟、袁尚に属したのは審配、逢紀などである。彼らの出身地を確認すると、
袁譚は潁川郡との関係はどういったものだろうか?袁家の本籍地である汝南郡が潁川郡と同じ豫州に属していることを考慮すると、郭図らは袁家の同郷の者という看板を掲げてその長男たる袁譚の側についたと考えられる。一方、冀州出身の審配や同地出身と推測される逢紀は、袁紹の冀州入り以来、自分たちが彼の覇業に大きく貢献したのだという確信を抱きつつ、主君が正統後継者と見做した袁尚を擁立したのであろう。そのようにして両派閥は互いを敵視し合い、袁紹死後にその抗争が表面化したというのが私の考えるところである。
ただ、袁紹死後は反目し合ったはずの郭図と審配は、沮授(冀州広平郡出身)の権限が大きすぎることを袁紹に共同して非難しているし、田豊(冀州鉅鹿郡出身。渤海郡出身とも)は逢紀の讒言で死に追いやられているという事実もある。このあたり、もう少し深い掘り下げが必要だと思った。
結局のところ、袁譚も袁尚も各々に属する配下の抗争に巻き込まれたという側面が強かったのだと思う。父たる袁紹を含め、彼ら兄弟が家臣を制御する力量に欠けていた時点で、乱世には不向きな人物たちであったと言わざるを得ない。袁紹は勢力を拡大する過程で起こることが予測された配下同士の抗争を、芽であったうちに摘み取るべきであったのだ。