疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

恐るべし潁川閥

 引き続き袁紹の家臣団について検証しているが、後漢末における潁川郡出身者の絶大な影響力には驚かされる。この時代の潁川出身者と言えば、

荀紣荀攸鍾繇郭嘉陳羣、郭図、淳于瓊、辛評、辛毘、徐庶司馬徽張譲etc…

 など錚々たる顔ぶれである。過去においては『韓非子』で有名な韓非、前漢の諸侯王の勢力削減を行った御史大夫・鼂錯などを輩出している。そして、荀子13代目の子孫にあたるとされる荀紣がここの出身であることが面白い。

 前置きはさておき、本題に移る。今回述べたいのは、袁紹の家臣団における潁川出身者の影響力の大きさである。曹操の家臣団における影響力については、荀一族らの例からもわかるが、袁紹の家臣団の場合には、ピンとこない人もそう多くないのではないだろうか。

 圖等因是譖授「監統內外,威震三軍,若其浸盛,何以制之?夫臣與主不同者昌,主與臣同者亡,此黃石之所忌也。且禦眾於外,不宜知內。」紹疑焉。乃分監軍為三都督,使授及郭圖、淳于瓊各典一軍,遂合而南。 『三國志』魏書卷六 袁紹


 この場面は、郭図が監軍である沮授の権限が大きすぎることを袁紹に謗るというものである。そのため、沮授の権限は分割されて三都督とされ、それぞれ沮授、郭図、淳于瓊に与えられるになった。前出のリストを見ればわかるとおり、郭図と淳于瓊は潁川の出身者である。しばしば行われた郭図の讒言は自分らの発言力を強化する目的のものだったのだろう。

 潁川出身者の影響力の大きさを示す記述は他にもある。

辛評、郭圖皆比干譚而與配、紀有隙。眾以譚長,欲立之。配等恐譚立而評等為害,遂矯紹遺命,奉尚為嗣。  後漢書』卷七十四上 袁紹


 これは潁川出身の辛評と郭図が袁紹の後継者として袁譚を推すと、審配、逢紀と仲違いしたというものである。すると周囲の多くが年長の袁譚に継がせようと思っていたにもかかわらず、審配らは2人に害されるのを恐れ、袁紹の遺言を偽造してまで袁尚を擁立した。

袁譚が継ぐべしという空気を作りだしたのは発言力を保とうとした郭図らであろう。袁譚派の人物は郭図、辛評の他は辛毘(辛評の弟)ぐらいなものである。前回も述べたが、袁譚派は潁川出身者で固められていた。この時点で死んでいる淳于瓊、いつのまにか消えた参謀の荀褜(荀紣の弟)ら潁川出身者がいれば、袁譚に与した可能性が高い。

そして潁川出身者に政権を乗っ取られることを恐れたのが審配、逢紀をはじめとした袁尚派であった。こちらには後継者争いから端っから無関係な袁煕袁紹の甥で息子たちと同等の扱いを受けていた高幹、沮授の子・沮鵠を含め潁川出身者以外の多くの人物が属した。

 袁紹政権は潁川出身者の傀儡だったのかもしれない。袁譚も王脩や審配から「佞臣(郭図ら)を殺せ」と言われても殺さなかったし、郭図に脅かされていたという記述が注にだけどあるし。*1

*1:典略曰:譚得書悵然,登城而泣。既劫于郭圖,亦以兵鋒累交,遂戰不解。