疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

『漢書』を読もう―その2:陳平列伝編

陳平といえば、張良と並び称される劉邦の軍師として著名である。劉邦項羽に対抗するためのマクロ的戦略を立てた張良と比較すると、項羽とその参謀の范増の関係に亀裂を入れる*1 *2匈奴討伐に向かって危機に陥った劉邦を奇策で和睦に持ち込んで救う*3、といったミクロ的な謀略の面での活躍が多い。

漢書』の陳平の伝は「張陳王周列伝第九」に収録されている*4。張は張良、陳は陳平、王は王陵、周は周勃・周亜夫父子のことで、張良以外は丞相に就任した人物である。一つ前の「蕭何曹参列伝第八」の二人が彼らの前任として丞相より格上の相国に就任した人物なので、連続性を持たせたのだろう。

謀略と処世術に長けていることで有名な陳平だが、今回『漢書』を読むに当たって注目したのは、前漢統一後政治家としての彼の一面である。私がこの時代の中国で最も好きな人物ということもあって、今回はその一面について語りたい。

劉邦や二人の相国が亡くなった恵帝、呂后時代は朝廷は政治闘争に明け暮れていたものの民政は安定していたと伝えられる*5。この時代に国を保たせた第一の殊勲者は間違いなく陳平であると思う。

恵帝六年(前190)、曹参の死により左丞相となった陳平。同時に右丞相となった王陵よりは格下とされるが、それでも副宰相格という重職であった。劉邦は生前にこの二人の人柄について、

高祖曰:「陳平智有餘,王陵少戇,可以佐之; 安劉氏者必勃也。」卷四十 張陳王周傳第十

つまり、陳平は知恵が有り余っていて、王陵は知恵が足りない、劉氏=王朝を安定させるのは周勃だ、と述べたが、この人事は結果的に適任だったと言える。豪放な王陵は後に呂后と対立して解任されたもんね。

それを受けて陳平は右丞相となるが、呂氏が権勢を振るっていたため、彼に実質的な権限はなかった。そこで呂后の存命中は酒色に溺れた振りをして、彼女の死後に左丞相の周勃や城陽王の劉章らと共に呂氏を完全に討滅したが、それまでの一連の流れは見事だと思う。

その後恵帝の異母弟の代王・劉恒を擁立(文帝)し引退するも、文帝に請われて右丞相に復帰。これは周勃が文帝に国庫の収支の規模について問われて答えられなかった場面。

朝而問右丞相勃曰:「天下一歲決獄幾何?」 勃謝不知。問「天下錢穀一歲出入幾何?」勃又謝不知。汗出洽背, 媿不能對。上亦問左丞相平。平曰:「(各)有主者。」 上曰:「主者為誰乎?」平曰:「陛下即問決獄,責廷尉;問錢穀,責治粟內史。」上曰:「苟各有主者,而君所主何事也?」平謝曰:「主臣! 陛下不知其駑下,使待罪宰相。 宰相者,上佐天子理陰陽,順四時,下遂萬物之宜, 外填撫四夷諸侯,內親附百姓,使卿大夫各得任其職也。」上稱善。勃大慙,出而讓平曰:「君獨不素教我乎!」平笑曰:「君居其位,獨不知其任邪?且陛下即問長安盜賊數,又欲彊對邪?」於是絳侯自知其能弗如平遠矣。居頃之,勃謝免相, 而平顓為丞相。 卷四十 張陳王周傳第十

代わって陳平が裁判についても国庫についてもそれぞれの職掌にある廷尉、治粟内史に訊くように、と答えた。これに対して文帝は「ならば宰相の仕事は何か」と質問し、陳平は「宰相は天子を補佐し、陰陽を調和させ、外敵から国を守り、国内の百姓万民を懐かせ、役人が職務を全うできるよう勤めること」と答えたところ周勃が「どうして教えてくれなかったのか」と言うと「君は宰相という位にあってどうして知らなかったのか?陛下が長安の盗賊の数について質問されたら、それを強いてお答えするつもりか?」と答えた。

うん、今の日本で言うなら総理大臣が「裁判のことは最高裁判所の長官に、国庫については財務大臣に訊くように」、「君は東京都内の犯罪者の数を質問されたら、それを強いて答えるつもりか」と答えるようなものか。

陳平が亡くなったのは文帝二年(前178)ということで、この後間もなくといったところ。

最後に脈絡がないけど、他に陳平の台詞で好きなものを二つほど。一つ目は

還至雒陽,與功臣剖符定封,封平為戶牖侯,世世勿絕。平辭曰:「此非臣之功也。」上曰:「吾用先生計謀,戰勝克敵,非功而何?」平曰:「非魏無知臣安得進?」上曰:「若子可謂不背本矣!」 乃復賞魏無知。 卷四十 張陳王周傳第十

魏無知は素行は悪いが有能な人物として、劉邦項羽陣営に見切りを付けて逃げてきた陳平を推薦した人物。陳平のことなので腹の中は読めないが、魏無知には感謝していたと思う。

曹操が「未だ魏無知に出会えぬ(陳平のように有能な)者は私の元に来るように」と求賢令を出したのは有名。郭嘉は長生きできれば陳平的ポジションに収まったかもしれない。素行の悪さも似てるし。奇策や的確な進言、世渡りが得意なあたり賈詡にも通じる。

もう一つは

始平曰:「我多陰謀,道家之所禁。 吾世即廢,亦已矣,終不能復起,以吾多陰禍也。」 卷四十 張陳王周傳第十

自分は陰謀が多いから、自分の世代で我が家は終わるかもしれない、終わらなくても、後代に災いを残す、と自分に与えられていた役割や宿命を覚悟しつつ生きてきたことを窺える点も魅力的である。

*1:項王果疑之,使使至漢。漢為太牢之具,舉進,見楚使, 即陽驚曰:「以為亞父使,乃項王使也!」復持去,以惡草具進楚使。 使歸,具以報項王,果大疑亞父。亞父欲急擊下滎陽城,項王不信,不肯聽亞父。亞父聞項王疑之,乃大怒曰:「天下事大定矣,君王自為之!願乞骸骨歸!」歸未至彭城,疽發背而死。 卷四十 張陳王周傳第十

*2:陳舜臣『小説十八史略』ではこの離間の計を行ったのは張良だが、実際には陳平が行った

*3:其明年,平從擊韓王信於代。至平城,為匈奴圍,七日不得食。高帝用平奇計,使單于閼氏解,圍以得開。卷四十 張陳王周傳第十

*4:史記』では「陳丞相世家二十六」が立てられている

*5:贊曰:孝惠、高后之時,海內得離戰國之苦,君臣俱欲無為,故惠帝拱己, 高后女主制政,不出房闥, 而天下晏然,刑罰罕用,民務稼穡,衣食滋殖。 卷三高后紀第三