光圀伝
もっと端的に内容を語りたい。取捨選択が難しいところ。
- 作者: 冲方丁
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2012/09/01
- メディア: 単行本
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血気盛んな若者としての光圀
本作は時代劇で有名な水戸黄門こと二代水戸藩主・徳川光圀の生涯を描いた大作。作者の冲方丁はライトノベル作家出身の小説家としては最も著名な人物の一人。
全体を通じての感想は、光圀という人物の清濁入り混じった気魄、連綿と受け継がれていく人間の事業、歴史や漢籍に対する作者の綿密な取材、といった土台のしっかりした傑作であった、ということに尽きる。光圀の生きた時代は大規模な戦乱のない「泰平の世」であったが、そんな時代でもこれだけの傑作が書ける作者の力量には素直に敬意を表したい。中盤以降では光圀に影響を与えた登場人物が次々と亡くなっていくが、遺志を託すことができる人がいれば、それで良い人生だったと言えるのかも。
「黄門漫遊記」に登場するご老公のイメージが強いと、幼い頃に罪人の首で遊んだり、若い頃に辻斬りをしたりした本作(≒史実)の光圀像とのギャップに驚くかもしれない。そんな気性の激しい光圀の生涯の転機となったのは漢籍との出会い。彼は『史記』や『論語』といった漢籍にいたく感動する。特に彼が『史記』の兄弟で互いに国主の地位を辞退し合った伯夷、叔斉兄弟の列伝に感銘を受けたことは有名な逸話ではなかろうか。
それ以来、生涯を通し、政治については父の頼房、会津藩主で三大将軍・家光の異母弟にあたる保科正之、史学については伯父で尾張藩主の義直、武芸については剣豪の宮本武蔵、儒学については俊才として名高い林読耕斎*1、明の遺臣である朱舜水*2といった一流の人物の薫陶を受け、人間として成長していく。
そして光圀は自分が生まれた意味、歴史を記す意味、義とは何か、といった問いの答えを希求する。そう考えるようになったのには自分が兄の頼重を差し置いて水戸藩を継いだことに対する負い目に拠るところが大きかった。それに対し、光圀はどのような答えを導き出したのか。
まず自分の在り方として、光圀は高松藩主となった頼重の実子・綱條を養子として迎えて水戸藩を継がせ、自らの実子・頼常を頼重の養子とした。伯夷・叔斉の故事に倣って、兄弟としての在り方に筋を通したかったのであろう。
歴史を記すことについて、光圀は漢籍に通じていた義直から、日本には『史記』のような史書が存在しないことを何度も聞かされていた*3。そこで光圀は江戸に彰考館*4という研究機関を設置し、『史記』と同じ漢文の史書である『大日本史』の編纂を開始した。その完成は1906(明治39)年というから、大事業であったことが窺える。
義について、光圀は端的には述べていない。が、敢えて言うなら保科正之らと共に推進した殉死禁止、末期養子といった文治政策、日本独自の暦作成に挑戦する渋川春海*5の支援、五代将軍・綱吉の迷走に対する批判、自らを将軍に擁立しようとする家老・藤井紋太夫を手討ちにした、といった行いから、その折々に際して自分に課せられた課題を全うしようとする姿勢に「義」を感じた*6。