疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

夢とはいかなるものか。持っていても辛いし、無くても悲しい。

ノートPC(Windows8.1)を新調したので、だいぶブログを更新するのが楽になったと思います。はい。

前回、社会とはうかうかしているとあっという間に流されるような場所であり、流されず生きていくためのヒントが「したいこと」と「すべきこと」の区別という話をしました。今日はその流れを受け、今の自分の社会認識についてもう少し掘り下げた話をしようと思います。

よく性善説性悪説という話がありますが、自分自身がどちらの説をとるのか、という点は自分でもよくわかりません。両方とも孟子荀子が唱えた説と離れて、巷間では初対面の人やよく知らない人を信じるかどうか、「渡る世間に鬼はない」「人を見たら泥棒と思え」のどちらをより実感するか、という意味程度で使われているように思います。まあ個人的には、前者を信じたいところではありますが。

近現代は社会が専制君主や宗教の権威から解き放たれた世俗化の時代と言います。議会制民主政治に自由権基本的人権福祉国家に資本主義…。これらの概念が世界にもたらした恩恵は確かに大きいと思いつつも、どうも個人的には手放しで喜べないとも最近は思うようになりました。

壮大な話をするつもりはなく、どうも私は大衆受けする要素というものが基本的に好きではないようで、お涙頂戴のドラマの類にはほとんど興味がないし、最近一部で噂になっている「ポエム化」現象には辟易している節があります。「ONEPIECE」とか読まないしね。それはおいといて、ポエム化とは「夢」「絆」「涙」「感動」「笑顔」のようにJ-POPの歌詞のようなフワフワしたフレーズが企業の求人広告、マンション広告、ラーメン屋の額縁など生活のあらゆるフェイズにまで浸透しつつある現象で、特に3.11以降にもてはやされるようになったと理解しています。特に、若者に長時間低賃金のブラック企業的な労働環境を強いる一方で「夢はひとりで見るもんなんかじゃなくて、みんなで見るもんなんだ!人は夢を持つから、熱く、熱く、生きられるんだ!」「変わりたい。今の自分は嫌だ!みんなから愛される店長になりたい!」などとポエムな言葉を公衆の面前で絶叫させる、居酒屋甲子園*1のようなイベントは、個人的にもドン引きしています。意識高い系(笑)は喜びそうですが。

ポエム化とは少し離れますが、こういった「夢」「涙」「感動」やらをもてはやす風潮が、コミュニケーション能力の高さだけでのし上がり、涙の会見で視聴者の同情を買おうとしたSTAP細胞小保方晴子であり、世間の聴覚障碍への同情に便乗したゴーストライター佐村河内守であると思っています。同情できれば科学論文の捏造を許してしまうのも、障碍者の努力を神聖化してお涙頂戴の話を仕立て上げるのも大衆の成せる業です。世間を騙したのは無論小保方であり、佐村河内ですが、世間の側に「嘘でも捏造でもいいから感動したい」という願望があったのではないかというのが私の見方です。世俗というか、大衆的なるものの嫌いな部分として、度の超えた「民間の知恵」やら「実用至上主義*2も挙がりますが、こういう感動の安売りみたいなのは本当にどうしようもなく厭気がします。


どうでもいいけど、タイトルを考えるのに一番時間がかかった…。考えるといっても、引用だけど。

*1:全文表示 | 「夢」「仲間」を声高に叫ぶ「居酒屋甲子園」に違和感? NHK「若い世代のポエム化」特集がネットで反響呼ぶ : J-CASTニュース

*2:世の中に直接目に見えるような形で役に立つものだけに価値があるという考え方。今まで見知ったものとしては「文学部は法学部や経済学部と違って、世の中の役に立たないから潰せ」「漫画や小説なんて役に立たないもの読んでないで、ビジネス書でも読んだらどうだ」といったのが具体例