Burn my dread
今日もぼちぼち生きております、Kamikamiでございます。今後は忙しくなって更新がしにくくなると思うため、今のうちに言いたいことは言っておきたいと思います。
前回の記事で「~するべき」「~しなければならない」ではなく「~したい」と思うことをすることで人生が好転した、と言ったことを述べましたが、これは人間関係については強く実感します。社会的には大人と呼ばれる歳になって、人間関係を選択する権利を得たことは大いに喜ばしく思います。嫌な奴とは徹底的に距離を置く。特に仕事と関係のないプライベートの場では。
先日Twitterで
馴れ合いや人の顔色を窺うくらいならぼっちの方がマシだという傾向が強いのが本来的な性格に近い。こうして考えている時期の方が人生上手く行っている。その逆も然り
— Kamikami (@kamikami_3594) 2015, 4月 6
自意識過剰の対義語が「無意識過剰」なのは、つい最近知った。自分が人からどう見られているのか、まるで眼中にないタイプ。石原慎太郎が江藤淳から、あなたは無意識過剰だ、と評されたそうな
— Kamikami (@kamikami_3594) 2015, 4月 6
しんたろは極端な例だと思うけど、人の目ばかり気にして、自分がどう生きたいのか蔑ろにするのは窮屈だし、上手く行くとは思えない生き方だな。半沢直樹のドラマや小説に触れるたび、自分は人の目を気にせざるを得ない組織の中で生きていくのにつくづく不向きだと感じる
— Kamikami (@kamikami_3594) 2015, 4月 6
企業に雇われる以上、組織人となることは不可避だけど、役所や銀行、その他多くの一般的な企業よりは束縛の弱い業種を選ぶことができたと思う
— Kamikami (@kamikami_3594) 2015, 4月 6
人を束縛したくないし、人に束縛されたくない
— Kamikami (@kamikami_3594) 2015, 4月 6
なんていう一連のツイートをしましたが、時に触れてこの内容を反芻する日々であります。何だかんだで私のストレスは人間関係に端を発するものばかりだなあ、と。そりゃあ会社では当然嫌な奴*1に遭遇してしまうことは多いだろうが、10代の頃のように学校という同調圧力や狎れ合いの横行する閉鎖的な空間よりはこちらが取れる選択肢は増えたと思っています。
現代人はコミュニケーション不足だとか、コミュニケーション能力が欠如しているだとかよく言われますが、これは現代のコミュニケーションの本質を捉えていない上滑りの発言です。一昔前だったら携帯メールやら学校裏サイトで、今だったらLINEのようなSNSで言葉をやり取りし、干渉を迫る。コミュニケーション不足どころか、コミュニケーション過剰です。コミュニケーション過剰だからこそ、コミュニケーション能力とやらのある人間が高く評価されます。だから、STAP細胞の小保方晴子や、小学4年生を装って「なんで解散しないんですか?」というサイトまでぶち上げて大顰蹙を買った青木大和のような、コミュニケーション能力だけの軽薄な人間が一時的にとはいえ持て囃されたわけです。
まあ、負け惜しみを言っている気がしますが、せめて仕事の場では相手の話をきちんと理解したうえで、自分の考えをしっかり伝えられる程度までコミュニケーションをできるようにしていこうと思っています。それが一番にして唯一の近道だと思いますので。
*1:特に上司がこれだと辛い