疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

"文学少女"シリーズ

今日は、ここしばらく燻り続けていた思いに一区切りを付けたいと思う。こうでもしないと平穏かつ清明な気持ちで自分の思いを綴ることができなくなるからだ。

今回のお題はこの作品。ライトノベル界隈では名作として名高い作品である。



本作の第一巻を読んだきっかけは大学時代、私が文学やライトノベルを渉猟していることを知ったサークルの後輩に勧められたこと。内容は過去のつらい経験からトラウマを抱いた仮面作家である井上心葉が、文芸部の遠子先輩こと天野遠子と出会って繰り広げられる学校生活を描いたもの。紆余曲折あって、心葉は琴吹ななせという自らに思いを抱く同級生と交際することに。だが、心葉にはどれほど傷付こうと、作家としての道を歩むという宿命が待ち構えており、それに対してななせは彼に「書かなくていい」と言うが…。

当時の私は、本作を読み終えて単純に「自分の運命を受け入れる」作品だと思った。現実が、運命がいかに冷厳で理不尽であろうと、甘えや現世の喜びを捨て、荊の道を歩むのは崇高な行為だと自分の目に映った。ところが、当時本作をこのように受容したことが、遅効性の猛毒のように私を蝕むことになる。そのため、私は本作について思いを致す度に息苦しさやヘイトを募らせるようになった。

その原因は本作終盤の展開である。それは、遠子の従姉妹にあたる人物が、従姉と意中の男を結び付けるため、すでにいた彼の恋人へのレイプ(未遂に終わったが)を敢行するというものだ。作家として生きるという運命に向き合わせる、というのが作中のテーマである、という大義名分が前提にあるとはいえ、よくもこのケータイ小説でもなかなかやらない展開に大した疑問も抱くことなく受け入れたものだ、と今振り返ってみて思う。運命に向き合う主人公を描きたかったことはわかるとしても、この展開の牽強付会ぶりと、自分で生み出したとはいえ、作中のヒロインの純情さを蹂躙する悪趣味さに鼻が曲がりそうである。

今振り返ってみれば、当時は人間関係が上手くいかず、就職活動からも逃げ腰で、自分は社会不適合者なんだという劣等感に基づいた自意識が強く、社会に過剰に適応しようとしていた。だから世の中の労苦や理不尽をひたすら耐え忍べばいつかは報われる、それは美徳だ、とカルトじみた信仰を抱きながら。甘えを捨てろ、夢や理想に逃げるな、涙を呑んで現実を直視しろ、と…。だから、このような今ではとても是認しがたい展開にも納得できたのだと思う。いや、正確には納得したかったから、納得するように自らに言い聞かせて無理矢理納得することにした、と言うべきか。これを一度でも受け入れた、当時の自分の未熟さ、浅慮さは今でも直視しがたい。


時が過ぎ、少しずつではあるが社会との接点を持つようになり、私はひたすら他人に慮って自分の本音を押し殺すよりも、多少わがままな方が世の中生きやすいと思うようになった。そう考えることが習慣化してから、私は増田で一件の投稿との出会いを果たすことになる。

anond.hatelabo.jp

この増田の投稿を読んだ時は、我が意を得たり、と思った。また同時に、当時はほとんど意識していなかったが、後輩をいつか自分を救ってくれる男らしさを備えた男に育て上げる『源氏物語』の光源氏と紫の上の性別と役割を逆転させたような、ジェンダーごり押しの男女観と、恋愛に総てを捧げ、その結果身を持ち崩して恨みつらみを持て余す恋愛至上主義の亡霊とでも呼ぶべき登場人物が多かったとも思う。別に後者は文学作品では珍しくないが、なまじ世界観がファンタジー要素の稀薄な、現実と地続きのものであったため、その不快感が増幅した感がある。そう思うのは私が本気で誰かに恋愛感情を抱いたことのない冷めた人間だからだろうか?そして何よりも、一番まともだったヒロインが一番報われないというのも気に食わない。やはり相手のためを思って身を引くよりも、自分の欲求に忠実な方が報われるのか。

投稿者の意見には大筋で同意するが、相違点が一点ある。投稿者は本作含む野村美月の作品について「嫌いなのに自分の心を掴んで離さない」と語るが、私は別にそう思えるほど本作への愛着は強くないし、むしろもう読みたいとは思わない。というのも、本作は自分にとっての読書の在り方に真っ向から反するからだ。

私にとって読書は趣味だ。一般的に日本人は、趣味であっても手抜きや中途半端さを許さず、趣味を通して理不尽を味わってもなお向き合うことが素晴らしい、本気で向き合えなければ趣味じゃない、と思っている節がある。が、私にとっては読書は趣味以上でも以下でもない。断じて苦行ではない。趣味は徹頭徹尾楽しむためのものだから、趣味を経て理不尽さに息を詰まらせたり、ヘイトを溜め込んだりするのは本末転倒なのだ。そして、この息苦しさやヘイトを解消するためにできるのは、距離を置いて時が経つのを待つことのみである。


P.S.これで言いたいことは言い切ったと思う。今回は書評と言うより、ほとんど自分語りだったような気もするが…。それはともかく、今後は晴れがましい心構えでmixi時代によくやっていたブログ(SNS)上での書評活動に少しずつ復帰していきたい。