永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編
本格的に読書を始めて10年ほど、思考や思想信条に影響を与えた本は枚挙に暇がないが、今回はここ1年で特に目から鱗が落ちる経験を味わった本を紹介。カントはもう少し頭の堅い道徳教師みたいな人だと思っていたけど、なかなか刺激的で人間の本質を捉えた言葉を残しているんだな、と。
永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編 (光文社古典新訳文庫)
- 作者: カント,中山元
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/09/07
- メディア: 文庫
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自分で考えることが第一歩
啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年の状態から抜けでることだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことができないということである。人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙の標語というものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。
同書10頁
「啓蒙とは何か」でカントは「啓蒙」という用語についてこう定義する。
人間が極限まで理性的であることはできない。「自分で考える」といっても限界があるだろう。第一、考えることなんてインテリ様のお仕事じゃないのか。「自分で考えろ」と言うのは、部下に仕事を丸投げして責任を負おうとしない無能な上司の常套句なんじゃないか。確かにそう考えた方が楽だが、面倒なことであってもそれを鵜呑みにしたり、人に丸投げすることなく、一旦は自分で引き受けて考えてみる。そして疑問があればそれを解明していく。カントが説いているのはそういうことであると理解した。『論語』に「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」と、学習しても自分で思考することを経なければ賢明になり得ないことを言い当てた一節があるが、このような考え方は時代や洋の東西を問わないものであることを痛感する。
非社交的な社交性と悪の起源
自然が人間のすべての素質を完全に発達させるために利用した手段は、社会においてこれらの素質をたがいに対立させることだった。やがてこの対立関係こそが、最終的には法則に適った秩序を作り出す原因となるのである。
同書40頁
本書において最も興味を惹かれたのが、「世界市民という視点からみた普遍史の理念」「人間の非社交性」に関する記述である。非社交性といっても、性格が暗いとか、コミュニケーション能力がどうこうとか、そういう話ではない。人間には社会を築く一方で、時に社会から退避して孤独を求めたり、他人への嫉妬心や支配欲をむき出しにしたりする逆説的な性質を有している、ということだ。人間は自然の産物であり、社会的な生き物である一方、反自然的で反社会的な一面を持っている。こうした人間の性質を、カントは本来は曲がって育つ森林の樹木が、他の樹に日光を奪われまいと独占しようとするために高くまっすぐ生長するという、有名な森林の比喩を用いて説明している。彼にとれば、人間の本性は「善」ではなく「悪」なのだ。この例えには感銘を受けざるを得なかった。
カントは人間に特有の、悪を行う反自然性の原点は神の掟を侵犯したことにあると言う。まずアダムとエヴァは禁忌を破って知恵を付けた。そのことが羞恥心が芽生え、イチジクの葉で性器を隠すことで、本能な性欲に留まらない観念的な「愛」を生み出す。また、人間は「死への恐怖」を喚起することで想像力を働かせ、偉大な思想や芸術を生み出してきた。「メメント・モリ」とも言うが、自分の死を意識することが人間の活力を最大限に発揮させてきた、と言うことだろう。人間が社会の中で他者に配慮して生きるのは、善意や慈悲の問題ではなく、それが社会の設立と維持に必要だからだ。
このように人間社会が発展を遂げるのは「啓蒙とは何か」の内容も踏まえれば、人間が理性を持って自分で考えるためである。共和制国家の樹立という次なる段階へと歩を進めるのも、人間が自然の産物でありながら反自然性、悪しき本質がその内に組み込まれているため、ということになる。まさに自然の奸計だ。
自然状態の廃棄から始まる平和
ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態*1ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているというわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。だから平和状態は新たに創出すべきものである。敵対行為が存在していないという事実は、敵対行為がなされないという保証ではない。この保証はある人が隣人にたいして行うものであり、これは法的な状態でなければ起こりえないものである。そしてある人が平和状態の保証を求めたのに、隣人が保証を与えない場合には、その隣人を敵として扱うのである。
同書162,163頁
私は読む前「永遠平和のために」は国家による常備軍の撤廃の主張などから、空想的平和主義を謳ったものだと思っていたが、そうではないようだ。本著作の中身は戦争原因の排除や常備軍の撤廃、内政干渉の禁止を謳った予備条項と、国際法に基づいた自由な国家の連合の樹立を提言する確定条項の2つに大別できる。原典が世に出たのはフランス革命の熱狂と衝撃が冷めやらない1795年である。予備条項における内政干渉の禁止という取り決めは、イギリスやオーストリア、プロイセンといった周辺諸国がフランス革命に干渉したことで、その狂乱の火に油を注いだことを踏まえているのだろう。
ここでカントは自然状態を戦争状態と捉え、これを廃棄することが平和の達成の第一歩と考えている。自然状態の下の人間は議論よりも暴力による問題解決を好むが、この克服のために自由な国家が結成した国家間の連合の樹立という手段を取るべきだという。この連合の根拠となる国際法の正当性については、例えば数人の前にケーキがあり、最後に切り分けた分を食べられることにした場合、切り分けるのが悪魔であっても、理性がある人ならなるべく公平に切り分けようとする、とカントは説明する。自分だけ法律の適用を免れようと思っているのを知っていながら共同体を設立しようとしたら、外的な法律によって、特定の誰かが特権的な権利を持たない自由で平等な共同体になるだろう、というのがその前提である。
また、カントによれば、自由で平等な国民が代表を選出する共和制下では、国民が開戦に同意しない。実際のところ共和制国家の国民は、自然が意図するほど理性的を重んじていなかったために、20世紀の二度の世界大戦をはじめとした戦争を引き起こしたが、国際連合の設立をはじめとした現在の国際関係の原理を築き上げたという面は見過ごすことはできない。カントにせよ、社会主義が資本主義に取って代わることを訴えたマルクスにせよ、人間の理性を過大評価していた感はあるが、今後の世界情勢を見通す上で、考慮に入れておいた方がよいアクチュアルな問題提議であると思う。
*1:スタトゥス・ナチューラーリス