疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

大衆の反逆

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

「大衆」とは

「大衆」がヨーロッパを席捲しつつある現実を浮き彫りにした警世の書。全体を通じて、大衆が過去と現在との連続性を意識せずに文明を生み出し、維持してきた存在に感謝の念を持たず、自分より優れたものに耳を傾けない自己完結した人々であること、そして大衆とは労働者階級の人々よりも科学者や医師といった専門家に当てはまる人々であるという記述に指摘の鋭さを感じた。

何となく察しはつくが、まずは「大衆」の定義について触れていきたい。著者オルテガは大衆を以下のように定義する。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。同書17頁

思い当たることが多々ありそうな一文である。他の人にくっついて行動し、人と同じ意見や趣味嗜好を持つことに安心する。そうでなければ同調圧力に屈するか、さもなくば爪弾きにされてしまう。「ユリ熊嵐」でいうところの「透明な嵐」。日本で生まれ育ったものとしては心の中で思わず全力で同意してしまう。凡俗であれば重い社会的責任を背負う必要もないだろうし、無用な注目や嫉妬を浴びることもない。大衆であることを恥じ入るどころか、むしろ大衆であることに開き直る。

著者は大衆が生まれる社会の背景に、凡俗な人間が自分の凡俗さを自覚しつつ、凡俗であることの権利を完全と主張し、いたるところでそれを貫徹しようとする風潮があることを喝破している。本書が出版されたのは1930年だが、その頃から80年以上を経た現代にも当てはまる指摘だと感じるどころか、本書の定義する「大衆」がより一層増えたという感じがしてしまうのは果たして気のせいだろうか。そしておそらく、

冒頭でも述べたが、本書の大衆に当てはまるのは労働者階級の人々ではなく、科学者や医師に代表される高度の専門知識を有する人々である。インテリゲンチャと言っても差し支えないかもしれない。さらにカジュアルな言い回しを借りれば、自分の専門分野では真っ当な知見を有するのに、専門外の事柄にはまったくの的外れな意見を垂れ流す「専門馬鹿」だと思っている。専門外のことには疎いために、詳細に理解することができないため、おのずと自分と同じような人に同調する人が後を絶たない社会構造がここに浮き彫りになる。現代は当時よりも高等教育やインターネットが普及し、一般庶民でも高度な専門知識や自由に意見や言論の場にアクセスする機会が増えた。オルテガの言う「大衆」もそれに歩調を合わせて一般化したのだろう。

歴史の高さと事故の超克

では大衆が幅を利かせるこの俗世でどのように生きればいいのか。他にも著者は大衆の特徴として、過去の偉人の業績や思想の積み重ねの上に成り立つ「歴史の高さ」に対して無頓着であること、すなわち先に述べた過去と現在との連続性を意識せずに文明を生み出し、維持してきた存在に感謝の念を持たず、自分より優れたものに耳を傾けない自己完結した人々であることであることを述べている。彼らは自らを過去から切り離されていると思い込んでいるのだ。それに対して著者はこう述べる。

いっさいの過去を自己のうちに縮図的に蔵することこそ、いっさいの過去の自己を超克するための不可避的な条件なのである。同書132頁<< 
ここで求められているのは謙虚さではないだろうか。今の文明は過去に生きた人々の営為に支えられていることに思いを致すこと。先の話題に話を戻せば、専門分野の知見を積み重ねてきた過去の叡智に感謝すること、専門外の事柄に不用意に口を出さない、ということもあるが、それ以上に気をつけたいのは、その疎さに対して「専門外だから無知でも仕方ない」「無知で何が悪い」と居直ることなく、謙虚に無知を認めること。そして絶えず過去の自分と向き合い、これを乗り越えていく。ソクラテスも言ったことであるが、これを何かを学ぶ際の大原則にしていきたい。