疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

Fate/Grand Order -絶対魔獣戦線バビロニア-

anime.fate-go.jp

Childhood's End

Fate/Grand Order」7章はHFのセルフオマージュでFGO屈指の盛り上がるシナリオだから、最後まで目が離せない「オレたちの課金がアニメになった」という具合で実に上々。オリジナル曲のアレンジに風景や水の作画の秀逸さ、「マーリンシスベシフォーウ」のシーンなど、ゲームプレイ勢には楽しいアニメだった。あと序盤は赤井監督によるマシュの股間部アップが目立った記憶。「ストライクウィッチーズ」の股間督こと高村和宏監督並み。

舞台は紀元前2500年、Fateシリーズではおなじみギルガメッシュウルク王として存命中だった時代という設定。Heavem's FeelのセルフオマージュでFGO屈指の盛り上がるシナリオだから、最後まで目が離せなかった。ゲーム本編と一部異なる構成を交えつつも、人が神と共にあった神代との訣別という人類にとっての「幼年期の終わり」を見事に描ききっていた。

物語は三女神同盟やティアマト神とそれに対抗するウルクの人々の戦いを中心に進行する。ケツァル・コアトルの「"戦えるものがあり、戦えない者がいる"」「"その許容範囲の広さは人間社会だけの特徴だ"」やイシュタル「頑張っても、頑張れない人はいるの それは勇気がないとか、弱虫とかじゃなくて、生体機能として向き不向きがあるだけ。」といった奔放不羈で一人ひとりの人間のことなど気にも留めないような女神の人に向けた眼差しが印象深い。また、シドゥリさんやサーヴァントとして実装される前のエレシュキガルが動いて喋るのを見ることができて嬉しかった。

地母神としての復権を果たそうとする人類悪ティアマト*1とラフムの大軍が迫る中、これを迎え撃つウルクギルガメッシュは演説を行う。

ウルクは滅ぶ!もはや変えようがない事実だ!勝利の暁を一人でも拝む者があれば、その胸中に 我らの生き様が刻まれる。例え死するとも、子を残せずとも、人は人の中に意思を残す。それこそ人が持つ力の髄。血を介さぬ知性による継承、命の連鎖。ウルクの滅びは我らの滅びではない!我らは勝利の暁に輝き、その光で時代を繋ぐ! 18話より

やだ、カッコよすぎ。

アニメの演出のおかげで、対ティアマト戦が怪獣映画のような展開だった。人の知恵と力を結集し、倒れゆく同胞の屍を踏み越えてビーストという災厄に対峙するというもの。以前見た「シン・ゴジラ」に通じるものがあった。ゴジラをはじめ怪獣は有性生殖で数を増やすわけではないので、彼(?)らに性別という概念はないと理解している。なので地上の生命の母としての役割、存在が母という概念そのものである女神ティアマトの存在は特異なものとして目に映った。

でも実際問題、FGOをプレイしてFateの登場人物の中で一番いい意味で印象が変わったのは間違いなくギルガメッシュ。それ以前はドラえもんの宝具、のび太の適性(アーチャー)と慢心ぶり、スネ夫の声を併せ持ったジャイアンだとしか思ってなかったのに。FGO7章の生前のウルク王として登場するギルガメッシュは完全にきれいなジャイアンだったし、ティアマトとの最終決戦で助太刀してくれる英雄王ギルガメッシュは劇場版ジャイアンだった。

ギルガメッシュにキングゥ、ケツァル・コアトルにゴルゴーン、エレシュキガル、山の翁にそしてイシュタルとマーリンの渾身の働きのおかげでティアマトに迫り、英雄王として現界したギルガメッシュの天地乖離す開闢の星でとどめを刺す展開が完璧すぎる。サーヴァントは人理を守護する人類史の影法師、という表現を痛感する展開だったなあ。みんな今を生きる人間が好きすぎる。「Fate/Apocrypha」でカルナさんが「過去を生きた英霊にとって今を生きるお前たちは宝だ」と言っていたのを思い出す。

決戦を目前に控えたギルガメッシュが「子は親からどれほど愛情を受けていようといつかは親離れしなければならぬ」という趣旨のことを言っているが、これは本作におけるギルガメッシュの役割を端的に示している。人が自分たちを産み育てた神の庇護下から独立して人の時代を始めるのを補佐することがまさにその役割。ティアマト戦時のテロップとBGMのタイトルがChildhood's End(幼年期の終わり)だけど、ギルガメッシュはまさに作中のオーバーロードの立ち位置にあった。

わたしが好きなSF作品『BEATLESS』でも「人類が終わるんじゃない。僕ら人類の、少年時代が終わるんだ」という名言があるし、ぼくが『幼年期の終わり』を読むに至ったのは必然と言えば必然だった。

*1:大元のモチーフはHeavem's Feelの黒桜。CCCに登場するBBとは同類と言える