L'aube de l'horizon

ごきげんよう

こんな時だから坂口安吾『続堕落論』も読んでみた

せっかくなので、昨日に引き続き『続堕落論』も読んでみた。ただそれだけのお話。

昨日触れた通り、『堕落論』は戦時体制や武士道による幕藩体制など、新旧の秩序の欺瞞を白日の下に曝したが、『続堕落論』は日本人(特に農民)の美徳と言われる「耐乏」、「忍苦」の精神について論ずる。坂口安吾に言わせれば、これもまたカラクリである。

農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。乏しきに耐える精神などがなんであるものか。必要は発明の母と言う。乏しきに耐えず、不便に耐え得ず、必要を求めるところに発明が起り、文化が起り、進歩というものが行われてくるのである。
坂口安吾堕落論 新装版』「続堕落論」角川文庫 122頁

いやあ清々しい。清々しいとしか言いようがない。自分の表現力の拙さが口惜しい。戦時中も「贅沢は敵」だとか「足りぬ足りぬは工夫が足りぬ」だとか「欲しがりません勝つまでは」とか言いはやされて、世間に同調圧力の空気が生まれた。無論、従わない者は非国民のレッテルを貼られた。その欺瞞を暴き出すその舌鋒の鋭さは実に痛快である。

他にも『続堕落論』は『堕落論』以上に天皇制とそれを利用してきた政治家を痛烈に批判する。

たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けようと言う。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!
我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい土人形の如くにバタバタ死ぬのが厭でたまならなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、又、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めとも又なさけない歴史的大欺瞞ではないか。
同上 125頁

結構キてますね。坂口さん。大事なことなので3回言いました。

美的感覚は人それぞれだし、それにケチをつけるつもりは毛頭にないのだが、私はこういうのを「美しい」と思う人とは相容れないと思う。石原慎太郎のように。本心から従がっているのならまだしも、空気の同調圧力によって「従わされている」状態のどこが美しいものか。「こんなの絶対おかしいよ」と言えない社会のどこが美しいものか。「王様は裸」と真理を突いた子供に寄ってたかって石を投げるようなものである。

そう。私が最も恐ろしさを感じるのは、こういう同調を強制する空気である。震災後の今だと、「被災者のために自粛しろ」というものが代表例だろう。自粛するのは大いに結構だが、他者に自粛を強いるのは語源からして矛盾しているし、全体主義に通ずる。従いたくないものに従うのは自己欺瞞である。自分で自分を騙すことである。

今回の場合は、ニュースでも「自粛してばかりでも仕方がない」という声が聞かれるのは幸いか。私に言わせれば、こういう時こそ同調圧力を撥ね退けて普段通りに経済を巡らせることのほうが、自粛させられることよりよっぽど愛国的である。

そして坂口は、

しかして、この個の生活により、その魂を吐くものを文学という。文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、しかして、その叛逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。同上130‐131頁

我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれ、ということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何ものかカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。同上131-132頁

悲壮だが、心からの愛情と覚悟を感じる。人間の作り出した秩序、制度、カラクリは永遠不滅のものではない。それらを築いては壊し、築いては壊しを繰り返すのが人間の業である。我々も社会も、急激には変われないから、少しずつ建設的な方向に舵を取るしかない。太宰治もまさにそうなのだが、無頼派の作品というのは、どこか虚しさがある。諦観がある。

だが、それに留まらない一種の吹っ切れた感覚というか、清々しさも感じられる。それは本来の意味での諦め、覚悟があり、自己欺瞞を全く感じさせないからであろう。そして、私を最も強く惹き付けるのは、このように自分自身を偽ることなく生き、書き、語る人である。それは「超人」とも呼べる。それは私自身が自分に嘘を吐き続けて生きてきたからであろうか。下手な嘘は吐くものじゃないね。

だから私も自らにこう言い聞かせたい。「堕ちよ、生きよ」と。