疾風勁草

子曰く、歳寒くして然る後に松柏の凋むに後るるを知る

すばらしい新世界

2週間ぶりの更新です。さて、今回は前々回の記事でも触れた話を少し掘り下げてみたいと思っております。世の中の恣意性についての話です。

まずは記事の当該箇所を引用します。

もう少し世の中の恣意性に早く気づき、対策を講じたかった、と振り返ってみて思います。ここで言う恣意性とは、善人が報われるとは限らないし、悪人が罰を受けるとも限らないことに代表される、世の中の出鱈目さです。実際にはその逆、善人が若くして非業の死を遂げることもあれば、悪人が畳の上で大往生を遂げることだってあります。それはおかしい、と思ってみても何も変わりません。私はここ1、2年でこの事実を直視することから、自分の人生を捉え直しはじめました。

この恣意性とは真逆と言っていい「世の中で起こっていることはみな正しい」という考え方を「公正世界信念」と呼びます。より具体的には「努力は報われる」「悪人は痛い目を見る」といったものです。一見すると、このように考える人に対して「きっと素直で善良な人なんだな」という印象を持つ人が多いかもしれません。ですが、今の私に言わせれば、こんな風に能天気に考えるぐらいだったら、ネガティブ野郎とか冷血漢と言われたほうがマシです。

なぜか。このように考える人ほど、報われない人や失敗した人に対して冷淡だからです。彼らの頭の中では「努力は報われる」は「報われない人は努力が足りない」に、「悪人は罰を受ける」は「痛い目を見ているからこの人は悪人だ」に変換されます。さらに厄介なことに、彼(女)自身は人を傷付けることに無自覚的です。だから、いじめが問題になれば「いじめられた側にも責任がある」、ブラック企業が取り沙汰されれば「労働者の自己責任なのに甘えている」といった、客観的(笑)な意見を述べます。

こういう人に限って、人に対して過大な期待を寄せます。他者が善良かつ賢明であることが前提なので、その分期待の水準を高く設定します。だから、ブラック企業の経営者が「自分にもできたんだから、他の人にもできるだろう」と考えて劣悪な労働環境下で長時間労働を強いるわけです。

一方で、世の中の恣意性を前提とする生き方は、人に過度な期待を抱かない生き方でもあります。他者への要求が少ないため、要求水準に満たなかったからといって期待を裏切られた、と一方的に被害者意識を抱くことはまずありません。逆に、他者からの善意に触れることが叶った場合の喜びは、人に期待する生き方をしている人の喜びに勝ります。彼らにとっては他者の善意は当然でしょうから。

また、努力が報われるとは限らないと考えるため、楽しみを捨てて必死に「やるべきこと」に対して努力する方法よりも、限られた選択肢の中から「やりたいこと」を見つけて楽しみながら成果を上げる方法について考えます。で、大体はいやいやながら事を進めるよりも、楽しんで取り組んだ方が好ましい結果を生むことが多いです。精神論や苦労話が大好きな、美しい我が国ニッポンでは苦行を味わうことは共感され、持て囃される一方、楽しんで成果を上げようだなんて、甘えだ、虫が良すぎる、と槍玉に挙げられます。

ですが、今の自分にはこれ以外の生き方は思い当たりません。根が臆病でひねくれ者で猜疑心が強いので、そもそもキラキラした眼で人の善意に期待するという生き方のハードルが高いです。人の偽善や欺瞞が見え透いて、しょっちゅう幻滅します。努力しても無駄だと悟ってしまうこともしばしばです。無償の善意を前提とした人間関係よりも、ギブアンドテイクのビジネスライクな人間関係の方がしっくり来ます。自分でも嫌な性格していると思います。

というわけで、開き直って今後は「楽」の一文字を念頭に置いて何事にも取り組んでいきたいと考えています。楽しんで、かつ楽して*1取り組んでいこうというダブルミーニングが込められています。

*1:ここでは、最小限の労力で最大限の成果を志す、という程度の意味