L'aube de l'horizon

ごきげんよう

三公「太師」と「太宰」

 周といえば殷を倒して中国に君臨した王朝であることはよく知られている。この王朝の創始に関わった文王や武王、周公旦は『史記』や『論語』などの書を通じ、名君、聖人として偶像化されている節もある。特に五胡十六国の王朝ではその傾向が顕著であるようだ。

 たとえば、文王、武王並びにその後継者の成王を補佐した太公望が「太師」と呼ばれたことは有名であろう。この称号は春秋戦国〜漢代には用いられなかったが、後漢末期に至って董卓が自称したことは三国志に詳しいことを自負する人ならご存知かと思う。だが、この称号が名を変えてこの後も存続したことを知っている人は少ないのではないだろうか。

  太宰、太傅、太保,周之三公官也。魏初唯置太傅,以鐘繇為之,末年又置太保,以鄭沖為之。晉初以景帝諱故,又采《周官》官名,置太宰以代太師之任,秩徐ョ三司,與太傅太保皆為上公,論道經邦,燮理陰陽,無其人則闕。以安平獻王孚居之。自渡江以後,其名不替,而居之者甚寡。 『晉書』卷二十四 職官志


 これは晋書の職官志の記述である。これによると太宰(もと「太師」だが、晋の景帝・司馬師の諱を避けた)、太傅、太保は周の三公(人臣最高の位)であるが、前漢には司徒、司空、司馬(太尉)に改められている。すると、晋代および五胡十六国時代以降は周以来の官名を再び用いたことになる。この史料にもある通り、魏代に鍾繇*1太傅の位に就いたことを考えると、この周代の官名を用いるという流れは魏代にはすでにあったのではないかと考えられる。私は、これは文帝・曹丕禅譲と関連しているのではないかと勝手に推測している。

 もちろん、十六国の王朝でも周代の官名の使用例はある。たとえば、以下のように。

聰以劉易為太尉。初置相國,官上公,有殊勳恕者死乃贈之。(中略)劉延年錄尚書六條事,劉景為太師,王育為太傅,任障・ラ太保,馬景為大司徒,硃紀為大司空,劉曜為大司馬。
『晉書』卷百二 劉聰載記

 これは、五胡十六国最初の王朝である漢(前趙)の劉淵が亡くなり、子の劉聡が即位したときの記述である。ここで劉聡は軍制や統治機構を刷新し、群臣を改めて要職に任命しており、その中で劉景という人物が太師の位に就いていることがわかる。前趙の劉氏は匈奴の出身であるが、この劉景が宗室の出であるか否かはわからない。ただ、録尚書の劉延年と大司馬の劉曜は宗室の者であること、また、次の例も考慮すると劉景もやはり宗室出身である可能性が高い。

時慕容暐嗣偽位,慕容恪為太宰。
『晉書』卷百二十三 慕容垂載記


 この記述は、鮮卑慕容部の王朝である前燕の3代皇帝・慕容暐が即位し、彼の叔父に当たる慕容恪(慕容垂の兄)が太宰に任命されたというものである。同時に慕容恪の叔父である慕容評も太傅の位に任ぜられていることから、五胡十六国の三公は原則として宗室が任命される要職という性質があるのではないか。*2

 司馬師がいなかったら、九州の*3大宰府は「大師府」、太宰治は「太師治」だったかもしれない。日本の太政大臣の唐名は相国または大師(太師)だから、やはり関係があったのだろう。

 そして五胡十六国について勉強したい方には次の2サイトと参考文献がお勧め。2つのサイトのうち、前者は漢詩がメインらしいが五胡十六国時代をはじめとした人物伝の日本語訳が充実しているし、後者は2chのスレッドなので、割と気軽に学ぶことができる。

たけのこ―詩解
http://www.geocities.jp/takemanma/index.html

やる夫が五胡十六国時代の覇者になるようです
http://ansokuwww.blog50.fc2.com/blog-entry-258.html

 参考文献
 川勝義雄魏晋南北朝講談社学術文庫 2003
 川本芳昭『中国の歴史05 中華の崩壊と拡大』講談社 2005
 三恕W良章『五胡十六国』東方選書 2002

*1:魏代の太傅は最高官職でありながら皇太子の教育係という実権のない名誉職であった。曹爽が司馬懿をこの位に就けたのもこの流れ。

*2:八王の乱の当事者である趙王・司馬倫や成都王・司馬頴も太宰になっている。さらに東晋の2代皇帝である明帝・司馬紹のヒゲが黄色かったから「鮮卑奴」と言われたことも考慮に入れると、晋は五胡の王朝であったと言える。

*3:現在の大宰府の所在地は太宰府市。史跡は「大」で地名は「太」。なんと紛らわしいことか!