論語と算盤
これから当ブログの方針として、読んだ本や映像作品の中で、特に感銘を受けたものや興味深かったものについて、簡単なレビューを取り上げていきたい。今回は明治~大正期にかけて日本の実業界の黎明期に活躍した大実業家が「道徳経済合一説」を提唱した講演をまとめたこの著作。本書の中で渋沢栄一は、実業家が『論語』が説くような高い倫理観を持つべきであることを繰り返し説いている。『論語』自体は政治権力の一端を担う古代中国の政治家に読まれた儒学の原点となる著作だが、実業家も従業員に指示命令を下して事業を行う、という面で権力者である、という観点によるものだろう。
前置き
全体を振り返ってみて、渋沢栄一の持論については所々多少古いと思う箇所はあったものの、大方現代にも通じるもので、大いに勉強になった。一方で、漢文の訓読はされているものの、註がない箇所が多く、若干の不親切さを感じた。註なしで司馬温公とか二宮尊徳の興民安国法とか、意味や内容を取るのは少々難しいのでは、と思う。
- 作者: 渋沢栄一
- 出版社/メーカー: 角川学芸出版
- 発売日: 2008/10/25
- メディア: 文庫
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というわけで、特に気になった記述を数箇所引用してみたい。今回は「ごもっともです」としか言いようがない引用がほとんどなので、中身が薄いレビューかも。
習慣について
また慣習は、ただ一人の身体にのみ付随しているものでなく、他人に感染するもので、ややもすれば人は他人の習慣を模倣したがる。この他に広まらんとするする力は、単に善事の習慣ばかりでなく、悪事の習慣も同様であるから、大いに警戒を要する次第である。(中略)かの「ハイカラ」とか「成金」とかいう言葉は、すなわちその一例である。婦女子の言葉などもやはり左様で、近頃の女学生が頻りに「よくッてよ」とか「そうだわ」とかいう類の言語を用いるのも、ある種の習慣が伝播したものといって差し支えない。 (同書101~102頁)
この記述はごく単純なことの核心を言い当てている。万人にとって良い習慣を築くことが肝要である、ということを。今日も巷間に溢れる自己啓発書に通じる内容ではないだろうか。むしろこれを言い当てているという点で、大方の自己啓発書は特に読む必要がないということがよくわかる。言葉遣いが習慣の根幹を成す、というのもビジネス書がよく取り上げるトピックで、こうした大事なことはすでに言い当てられているんだな、という思いを新たにした。
それにしても興味深いのは、具体的に当時の流行語について言及している点である。「成金」はともかく「ハイカラ」という単語は今では半ば死語だが、「~のよ」「~だわ」といった女性の言葉遣いですら、現在では現実世界で使っている人は、自分と同世代にはまずいない*1。このあたりに本書の時代背景を感じる。そのうちこうした言葉遣い自体、本やドラマやアニメの世界からも消え失せるだろうけど。
富の還元
富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬ゆるに、事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈だと思う。(134頁)
ここで述べているのは多くの富を得た者はその富を社会に還元すべき、という著者である渋沢栄一の持論である。大木は、その土壌から多くの養分を吸い上げている一方で、果実を実らせたり、木陰を作ったりして恩恵をもたらすことで、周囲に調和しているが、それとは逆の行為、すなわち富を独占する傲慢さを戒めている。同時に、事業に成功して富を得た者がそれに傲ることなく振る舞うことの難しさを説いているようである。かつての成功で謙虚になれなかった者としては、自戒の言葉としたい、次に引用する本書の中で特に共感できた一節である。
公益と私益
個人の富は、すなわち国家の富である。個人が富まんと欲するに非ずして、如何でか国家の富を得べき、国家を富まし自己も栄達せんと欲すればこそ、人々が、日夜勉励するのである。その結果として貧富の懸隔を生ずるものとすれば、そは自然の成り行きであって、人間社会に免るべからざる約束とみて諦める外、仕方がない。とはいえ、常にその間の関係を円満ならしめ、両社の調和を図ることに意を用うることは、識者の一日も欠くべからざる覚悟である。これを自然の成り行き、人間社会の約束だからと、そのなるままに打ち捨ておくならば、遂に由々しき大事を惹起するに至るは、また自然の結果である。ゆえに禍を未萌に防ぐの手段に出で、宜しく王道の振興に意を致されんことを切望する次第である。(233~234頁)
自宅が貧しく、大学進学時や卒業後に辛酸をなめた者として、ここ数年で悟ったことがある。いくら自らを空しくして、ひたすら世のため人のためと社会貢献しようと息巻いても、根っからの意識高い系でない限り人もついてこないし、何より自分自身がついていけない。それになかなか気付けずに自己欺瞞に陥り、20代の大部分を棒に振った私にとっては苦い経験である。ここで渋沢栄一が説いているのも、私益を追求することが公益の追求の原動力である、ということである。自分の仕事が、自らを富ますという実感なくして国は豊かにならない。この公益と私益の関係についてはアダム・スミスの『道徳感情論』を思い起こさせる内容だった。
同時にその結果として貧富の格差が生まれることは自然の成り行きではあるものの、それを放置しておくことは由々しき事態である、ということも述べられている。問題は貧富の格差そのものというよりも、富裕層と貧困層の分断である、という現代日本にも通じる社会問題を指摘する渋沢栄一の慧眼に感嘆せざるを得ない。富裕層と貧困層の分断は公益の追求と私益の追求との間の隔たりが著しくなったとき、その時がまさに国家の危機ではないだろうか。今度レビューを予定しているトマ・ピケティの『21世紀の資本』にも通じる内容だ。
と、他にも感銘を受けたために引用したい箇所はいくらでもあるけど、キリがないので今回はここまで。
*1:それどころか、今年で5○歳になる自分の母親ですら怪しい。