この世界の片隅に
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「普通」であることの難しさ
戦時中の広島・呉に生きた若き女性・浦野すず(結婚後は北條すず)の生活を描いた話題作ということで気になって見に行った「この世界の片隅に」だが、思いの外見入ってしまう内容だった。
と言うのも、まず気になったのが、すずをはじめ戦時中の生活や登場人物の心理の描写が淡々としていたこと。舞台設定において時と場所を同じくする「はだしのゲン」のように戦争や原爆投下による理不尽さや悲惨さ、激しい怒りを発露するわけでもなく、戦後の風潮の反動としての保守人士の主張のように大東亜戦争というアジア解放の聖戦を勇敢に戦った日本人を顕彰するような内容でもない。
本作が描くのはあくまでも「普通」の生活を維持しようとするすずとその周りの人たちの生活。彼女が食料や生活用品の配給の列に並んだり、近所の主婦たちと情報交換をすると共に千人針を編んだり、空襲に備えて焼夷弾の対策に講じたりする、といったどこか淡々とした戦時中の日常が作中で繰り広げられている。絵を描くのが好きな「普通」の女性が戦時中という「普通」でない状況においても、努めて「普通」に、まともな生活を守っていこうとする話だった、という形で咀嚼して言えば上手くまとまるだろうか。
この淡々とした作風は終始一貫している。どこまで徹底しているかと言えば、すずの兄の要一の戦死したという訃報を受けた際にも、すずの義理の姪にあたる晴美が至近距離で爆弾の爆発に巻き込まれて亡くなった際にも、特定の登場人物への必要以上の感情移入を避けているほどだ。さすがに晴美の死の際には、すずも爆風で右腕を失ったし、晴美の母ですずから見れば義理の姉である径子もやりきれない悲憤を露わにせざるを得なかったが。
とは言え、戦時中は大方気丈に振る舞うことが多かった径子が、終戦を迎えて市街地が焼け野原となった呉の街の中で晴美を思い出して号泣する、といったシーンに淡々とした抑え気味の作風においても抑え切れないものの存在をありありと見せつけられるような思いがした。戦争の悲惨さや人々の理不尽な感情といったものを包み隠さずアグレッシブに発露する方法とは別のやり方で戦時中を描いたことに本作の個性が光っていた。激情の赴くままに直走る作風もいいが、本作のような抑制の効いた作品にも玄妙な味わいがあって好きだ。
今年は9月に広島県に訪れる予定だが、呉市にも立ち寄るつもりである。その際にはすずさんが生きた呉に思いを馳せて旅を満喫したい。